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「さて……その《紋章術》から派生した術式が本題の《偽符》だ」
「この紙、ですね?」
「ああ。《偽符》は一言で言えば、『持てば誰でも《紋章術》を扱う事ができる紙』だ」
《偽符》は先の戦争の際に編み出された関連術式だ。
創り出す方法は簡単で、どんな媒体にでも良いから、できる限り精巧な紋章を描く。そしてそれに、その紋章を持つ家の人間の血を一滴でも構わないので垂らす。
あとは、それを持って通常《紋章術》を行使するのと同じように意識を働かせれば、描かれた紋章の力を振るう事ができるというものだった。
「つまり……私でも魔法を使えるという事ですか?」
「そうだ。ただし、血が薄まった場合同様に扱える力は限定的だ」
《偽符》の場合、『どれだけ精巧に紋章を描いたか』と『どれだけ多くの血を使用したか』によって、扱える力の量は大きく変化する。ただし、どれだけ精巧に描いても、どれだけの血を使用しても、発動できる術の強さは本来のそれのほんの一握り程度のものだ。だが、一般人が《術》を扱えることに対する衝撃は相当のものだったという。
考案当時の国王であったフィリクス三世はこの《偽符》で烏合の兵達に《紋章術》の力を分け与え、泥沼の膠着状態にあった戦争に堂々の勝利をもたらした。当時に作成された《偽符》は血液のみを使って書かれていたそうで、真っ赤に染まった紋章からこの戦いを『緋紋戦争』と呼ぶ者も居る。
「試しに使ってみろ」
「ええっ……い、良いんですか?」
「当然だろう。お前の為に作ったものだ」
僕はちょうどいいものが無いか部屋をざっと見渡して、ベッド脇のボードに置かれていた陶器の水差しを手に取る。そしておもむろに中身をすべて床にぶちまけた。
「――ああっ、何してんのよ!」
同時に、耳をつんざくような悲鳴が響いた。見ると、部屋に戻って来たリアが相変わらずの剣幕で、肩を揺らしながらこちらに迫って来る所だった。
「ああ~、こんなに水浸しに……掃除するのあたしなんだからね!?」
「掃除はいらない」
「はぁ?」
状況を理解しきれていない彼女は捨て置いて、僕はマルグリットに手で合図を送る。彼女はおっかなびっくり丸められた紙を一枚広げると、両手で握ったままそれを眼前に差し出して見せた。
「ミュール家の《紋章術》は『水を操る』ものだ。その力を使えば、文字通り覆水を盆に返す事も可能だろう」
「で、でもこれ、どうやって使えば?」
「ああ、そうだな……」
確かに、全ての《紋章術》が同じような感覚で行使できるとは限らない。しかし、『そこにある水』を操作する能力であれば、おそらく理屈は僕の力と同じだろう。
「集中してイメージするんだ。零れた水が床板から染み出して宙に浮き、そのまま水差しの中に戻って行く姿を。できる限り詳細に。絵画よりも鮮明に。まるで現実に起こっている事のように……だ」
「は、はい……やってみます」
マルグリットは口を強く結んで、僕の足元にできた染みを見つめた。そうだ。集中して、イメージだ。手にした《偽符》の紋章がぼんやりと青緑に輝き始め、大気中のエーテルもまた同じ色の輝きとなって視覚化し、彼女の周りをゆったりと、小川の流れのように渦巻いていく。
マルグリットの意識がより強く、床の水に向いたのを肌で感じた。エーテルに靡かされて、ウェーブ掛かった亜麻色の髪がふわりと浮き上がって行く。そして《偽符》がより強い輝きを宿した時、床板に飲まれていた水が水滴となって少しずつ浮き出してくるのが見えた。
「え……え……? どういうこと?」
リアはただ目を丸くして、その様子を見守っていた。染み出た水滴は空中で少しずつ一か所に集まっていく。やがて、床がすっかり元通りに乾いた状態なった頃には、宙にはこぶし大の水球が一つ、表面を波打たせながら浮かんでいた。
「よし、後はそのまま、この水差しの中へ戻すんだ」
僕は水差しの上蓋を開けて、その入り口を指さした。マルグリットの視線もまた水差しへと移り、それに合わせて水球から噴水のように一本の水の筋が溢れ出した。丸めた糸がほどけるようにして、筋となった水はちょろちょろと音を立てて水差しの中へと注ぎ込まれていく。
水球は少しずつ小さくしぼんでいき、やがて吸い込まれるようにして水差しの中へと全て収まってしまった。
「――初めてにしては上出来だ」
僕は水差しの蓋を閉めると、注ぎ口をカップに傾けた。そこから流れ出る水が、カップの中へと注がれていくのをマルグリットとリアは惚けたようにして見つめていた。
「で……できました!」
小さく飛び上がって喜んだマルグリットの手の中で、使用した《偽符》がエーテルの輝きと共に霧散していく。そうしてすぐに、跡形もなく消え去ってしまった。
「見ての通り《偽符》は消耗品だ。残り一枚……できればやたらと使って欲しくは無いが――例えば『お前が本物のオードリィ・ミュールかどうか疑われた時』――そういう時に、その力が証になるだろう」
「そ……そうならない事を願います」
マルグリットは震える手で縋るように《偽符》を握りしめた。
「ところで……いつの間に準備していらしたんですか?」
「《偽符》自体は、初めから作るつもりでいた。言った通り、正体がバレそうになった時の回避手段として使えるからな。そのために、ヘンタイオヤジの遺体から血を多少失敬しておいた」
真顔で答えながら懐に仕舞っていた小瓶を取り出して見せると、マルグリットの顔からさぁっと血の気が引いて、豊満な胸元に大事そうに抱えた《偽符》を取り落とす。
リアも流石にちょっと引いた様子で、軽い軽蔑の視線を込めて僕を見据えた。
「あんたさ……仮にも元雇い主に対して、容赦ないわよね」
「結果としてミュール家のためになる事なら、死後の世界で許してくれるだろうさ」
同じように苦い顔を向けるリアに、僕は悪びれる事も無く言い返した。なりふりなんて構っていられない。多少人道に反していたとしても、後悔するよりはマシだ。




