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雨上がりのクールドリヨン ~劣等貴族の下克上~  作者: もがみのどか
プロローグ
1/52

 闇の中、小さな穴から差し込んだ光で自分が生きている事を実感した。

 僕は神に縋る想いで土砂を掻きわけて、穴を少しずつ大きく広げていく。

 やがて土砂が自分の重みに耐えられず勝手に崩れ落ちた時、ぽっかりと大きく空いた穴から、大粒の雨が僕を出迎えてくれた。

 特注品の深緑のジャケットが汚れるのも気にせず、泥の中を這うように外へ出る。

 足がもつれて最後は転げるようにしながらも新鮮な空気が吸えた時、全身の力がふっと抜けて、土砂の山の中にぐったりと倒れ込んでいた。


「はは……生きてる」


 ぽつりと、乾いた笑みでそう呟く。

 顔に降り注ぐ水の粒は体温をどんどん奪っていくが、その冷たさも今は愛しかった。

 視線だけを動かして身体をざっと見渡す。どこもかしこも泥で真っ黒だ。とてもじゃないが人前に出れる姿じゃ無い。

 とは居え、周りも大して変わったものじゃない。茶色い坂の中に泥を塗りたくられた人、馬、物。車両に乗っていなければ、それも真ん中に乗っていなければ、僕も彼らと同じようになっていただろう。

 ほんの僅かな幸運でで、今こうして生きていた。

 あれからどのくらい時間が経ったんだろう。目を動かすのもだるいくらい体力はカツカツだったし、腹もひどくへっていた。それでも力を振り絞って半身を起こすと、ゆっくりとその場に立ち上がった。

 他に、生き残った人間は居ないのだろうか。周囲をざっと見渡しながら、僕はその影を探した。


「おーい、誰か! 誰か居ないのか!?」


 叫んだ声は眼下をゴウゴウと流れる濁流の音にかき消されて、この谷間に響いているようには思えない。それでもわずかなの望みを込めて、僕は声を上げ続けた。


「……仕方がない」


 歩くのは億劫だったが、足元を確かめながら斜面をゆっくりと下り始める。


「誰か! 誰でもいい! 生きていたら返事をして――」


 そこまで言って、不意に盛大に蒸せた。泥を吸い込んでいたのか、黒い痰が咳に交じって口から零れる。今まで気づかなかったが、喉がカラカラに乾いていた。


「水……」


 目の前で暴れる泥水流に目が向くが、流石にあれを飲む気にはならない。

 そう言えばエドガー様が葡萄酒の入った皮水筒を持っていた気が……でも、またあの暗闇に戻る気もしない。


「今は我慢か……」


 ぬかるむ坂は踏み出すごとに足がずぶずぶと埋もれていき、なんとも歩きにくい。体力が無駄に奪われて、そのうち彫刻のようにうごけなくなってしまいそうだ。

 これは生存者探しをする前に、荷物漁りをした方が良さそうだな……散らばった木箱を目じりに捉えながら、そんな事を思っていた。


「誰か居るんですか――!」


 不意に、川の轟音の中に紛れてかすかに、そんな声が聞こえたような気がした。

 僕は周囲を見渡すようにして、もう一度声を張り上げる。


「どこだ! 誰か、生きてるのか!?」

「ここです! ここに居ます!」


 今度はハッキリと声を捉えた。誰か分からないが、少女の声だ。同時に、ドンドンと何か木の板のようなものを叩く音。僕は音の発生源を探すため、周囲を見渡す。

 どこもかしこも真っ黒で泥に塗れて、とても探し物をするのに向いている場所じゃない。それでも懸命に耳を澄まし、目を凝らした。

 声まで聞いて見殺しにしたってんじゃ、流石に今後の目覚めが悪い。


「――あれか」


 やがて目に付いたのが、坂の最下方で土砂に埋もれた馬車だった。僕が乗っていた木の箱に天幕を張っただけの簡素なそれよりも何倍も豪奢で頑丈そうな車両から、確かにその声は聞こえていた。


「待ってろ、今行く!」


 泥を掻きわけるようにして馬車へと近づく。車両の全貌が次第に見えてくると、僕はその側面に描かれた《蛇》の紋章が目についた。


「ヘルナルの馬車か……!」


 何となく助けに行く気力が削がれたものの、聞こえたのは女の声だ。少なくとも、脂ぎったオヤジのだみ声じゃない。


「ここに居るのか!?」

「は、はい! ああ……フィーネ様!」


 馬車の壁越しに呼びかけると、中からすすり泣くような声が聞こえてきて、僕は荒々しく外壁を叩き返した。

「祈ってる暇があったら中の状況を教えろ! ドアはどっちだ!?」

「ひゃんっ……え、ええと、暗くて何がなんだか……」

「ちっ……」


 馬車の周囲を見渡して、外から出口を探す。やがて埋もれた中にそれらしき影を見つけると、近くにあった板切れをひっつかんで泥を掻き出す。


「泥はこっちで掻き出す! 中から押してくれ!」

「わ、分かりました……」


 声でドアのある方向が分かったのか、車内でゴソゴソと動く音がすると同時に、ギッギッと木の板が軋む音が響いた。


「よし、いいぞ……泥さえ除けば開きそうだ!」


 オールで船を漕ぐように、土砂の海を板切れで掬い出す。少しずつドアの全体像が見えてくるが……そこでガツリと、板が固い何かに当たって砕けた。

 泥の中から顔を出したのは、ドアを塞ぐように鎮座する大きな岩だった。一メートル大ほどの板のような岩が、中の人間を外に出すまいとでも言うように、ドアを取り押さえていた。


「ど、どうしたんですか……?」


 様子が変わったのに気づいたのか、中から消え入りそうな声が響く。


「……岩がドアを塞いでいる。とても僕一人でどうにかできる代物じゃない」

「そ、そんな……!」


 わっと、少女が泣き出すのがドア越しに分かった。

 泣くなよ。僕だってどうにかしたいさ。だけど……

 口惜しくて、羽織った腰丈マントの襟を右手で頬に掴み寄せる。その手の中に、襟に装飾された飾りボタンを握りしめていた。

 やるしかないのか……?

 上手くいく保証はない。見るからに重そうな石だ。

 もう体力もほとんど無い。きっと試した後は、一歩も動けなくなるだろう。

 ダメだったら、お互いここで野垂れ死にだ。奥歯が痛いほど歯を食いしばった。

 馬車の中からは、相変わらず顔も知らぬ少女の泣く声が聞こえる。

 濁流の音と、雨の音と、それ以外は存在しないこの世界で、迷っている暇は少なくとも無さそうだった。


「――待ってろ、何とかしてみる」

「ぇ……?」


 もう一度、その存在を確かめるように飾りボタンを指の腹でなぞった。

 中央のツルリとした感触は盾。そしてそれを抱く、ごわごわとした感触は獅子。その獅子の背から伸びる、かつての我が家の繁栄を象徴する一対の翼。

 浮き彫りで作られたそのボタンは、指越しでも形が目に浮かぶように理解できた。

 僕のこの血に刻まれた、逃れられない刻印。

 僕は「これ」が嫌いだった。

 指先で撫でていたそれを手のひらで乱暴に掴むと、力任せにマントから引きちぎる。

 そしてその手を握りしめて――反対の手で目の前の岩盤に触れた。


「頼む。こういう時くらい、役に立ってくれ……!」


 そうして意識を集中して、脳裏に紋章の姿を思い浮かべる。

 何度となく行って来たそれは息をするように、極限の状態であっても間違える事無く、『僕は僕の力を行使する』。

 右の手中で汗に濡れる紋章が、大気中のエーテルに反応して淡い光を放つ。

 世界から取り残されたかのような土砂でできたステージの上で、青とも緑ともつかない第五元素の輝きが、星屑のように溢れて渦巻いた。

 やがてそれは光の筋となり、我がゴート家の紋章を宙に模っていた。


「――動け」


 触れた左手に《力》を込める。完全に行使しきれなくてもいい。せめて脱出できるだけの隙間ができれば、それだけでいい。

 額から汗が噴き出す。こめかみが悲鳴を上げるほど痛い。歯を食いしばり、痛みに耐える。心臓が強い鼓動を放つ。血液が全身を駆け巡る。その血がエーテルとなって放たれるように、青緑の輝きが左の手のひらから岩肌を包んでいく。


「動け……!」


 もう少し、もう少し《力》があれば……ぐっと全身の力を込めて大岩を押し倒す事ができるのに。自分には決してできない事でも、それを成している自分をイメージする。

 僕の力はそうやって使う。

 だからこそ鮮明に、不可能な事でも明白に、それを成し遂げた自分を想像する。

 岩盤がぐらりと揺れる。振り子のようにゆっくりと。

 圧せ! 圧せ! 圧せ!


「うごけよおおおぉぉぉぉ!」


 渾身の力で、脳内のイメージは岩をドアの前から押し退ける。

 同時にずるりと音を立てて、本物の岩が土砂の山を滑り落ちていった。

 緊張が解けて息を吐くと、紋章を模ったエーテルがどこへ行くでもなく霧散する。

 途端に膝の力が抜けた。立っていられれない。馬車のドアが開いたような気がする。だけど、それを見ている視界はもう霞んでよく見えない。

 限界だ――僕はその場に、崩れ落ちていた。

 意識が消える瞬間、誰かに抱き留められたような――そんな気がしていた。

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