冬の温もりは君の傍ら
妹ができた。
中3でできた一つ年下の義妹。母と義父の再婚後に初めて顔を合わせた彼女は、人の顔を覚えぬ俺でも綺麗だと記憶する程に、整った優しげな顔立ちをしていた。
「お兄様」
彼女――紗奈は俺の事をそう呼んだ。義父はどうも金持ちらしく、両親の再婚によって足を踏み入れた場所は、正しく今までとは違う世界だった。
子供の聴覚は鈍いようで鋭い。俺が金持ちの息子になったと知り、すり寄って来る者が増えるまでに時間はかからなかった。
けれど、取りつく島も無ければやがて諦めて去って行く。つまるところ、俺が孤立するまでにも時間はそう必要無かったのだ。
もっとも、元々親しい友人など居らず、当たり障りない関係しか築いてこなかった事もあり、環境としてはほとんど変化は感じられなかったが。
「お兄様、悠真お兄様」
家でも変わらず最低限しか話さない無愛想な俺に、紗奈はよくなついた。いつもにこにこと花咲く笑みで寄って来る彼女に、何故俺に話しかけるのかと聞いた事がある。彼女は少し驚いた顔をして、すぐに笑顔で答えた。
「だって、お兄様はちゃんと聞いて、寄り添って下さいますもの」
……よく、わからなかった。
彼女とは色々な話をした。と言っても、彼女の質問や言葉に俺が短く返すだけのものがほとんどだったけれど。
「お兄様。お兄様は、学校でお一人で寂しくないのですか?」
「別に」
「お兄様。お兄様は何故、あまりお話にならないのですか?」
「必要性を感じない」
「お兄様、お兄様はどうして――……」
お兄様、お兄様、悠真お兄様。
「お兄様。お兄様はどうして、そんなに寂しそうな瞳をしていらっしゃるのですか?」
「……。は、?」
「だって、お兄様はいつもどこか遠くを見ていらっしゃいます。まるで、世界に独りぼっちであるみたい」
「……。」
「お兄様、悠真お兄様。紗奈はお兄様のお側におりますよ。ずっと変わらず、お側におります」
「……なんでそこまで俺に拘るのか、わからない」
「あら、いやですねお兄様。簡単な事ですよ」
お兄様の事が、大好きだからです。
紗奈はわからない。彼女は俺にとって謎そのものだ。けれど、わからない彼女の傍にいる事は、けして不愉快ではなく、むしろ、そう。どこか、暖かかった。
ある日の事だ。俺とは違い私立の学校に通う紗奈は、いつも車で送迎されているのに、珍しく歩いて帰って来た。それも、秋も暮れの晴れの日に、ずぶ濡れで。
「紗奈、どうした」
「……お兄様。ごめんなさい、こんな格好で。すぐに着替えてまいります」
「それより風呂だ」
冷えきって氷のような紗奈の手を引いて、彼女を風呂場に促す。大人しく従う彼女に、いつもの微笑みは無かった。
「……。いじめか?」
風呂から出て着替えた紗奈に問いかける。
「いいえ、いいえ。お兄様。そんな大したものではありません。ただ、少し間違えてしまったのです」
曰く、紗奈が先日告白された男子は、紗奈のクラスメイトと付き合っていた。恋人を奪われたと感じたそのクラスメイトは、振られた怒りや嫉妬の全てを紗奈に向け、少しばかり手荒なまねをした。という事らしい。よくある事だ、と紗奈は笑った。
「怒りはしないのか」
「意図は無くとも、彼女を傷つけてしまったのは事実ですから」
「……。」
「どうしましたか、お兄様。不機嫌そうですけれど、私が何かいたしましたか?」
「紗奈」
「はい?」
「俺が仮に、今いじめにあっていると告白したら、どう思う」
「いじめられているのですか?それはいけません、先生やお父様に相談しませんと。お怪我などはありませんか?」
「仮に、と言った。いじめられてはいない。……俺だって、心配くらいはする。妹が傷つけられれば」
「、お兄様……。」
ぽつりと呟いたきり、紗奈は何も言わなかった。ただ、こつりと肩に乗せられた頭を撫でれば、少し肩が湿った感触がした。小さく震える肩は彼女の精一杯の叫びに思えて、俺はただ、沈黙の中で泣き疲れるまで寄り添う事しかできなかった。
それから何か変わったかと言えば、そうでもない。相変わらず学校でも家でも腫れ物のような扱いで、紗奈以外はあまり話しかけもしない。ただ。
「悠真お兄様」
紗奈が、毎回“悠真”と俺の名を呼ぶようになったのが印象的だった。
紗奈が泣いたあの日から彼女を見ていて、気がついた事がある。彼女は、あまり人と距離を詰めない。実の父親にすらどこか一歩引いた態度で接する。そしてそれを、誰も気にしない。
「なんで紗奈は俺に話しかけるんだ」
その問いは、紗奈をひどく驚かせたようだった。
「以前もお答えしましたけれど、悠真お兄様が大好きだからです」
「俺は紗奈に好かれる行いをした覚えはない」
「だって悠真お兄様は、とても優しい方ですから」
「……、は?」
他者と距離を置くのは、繊細だから。口数が少ないのは、よく考えているから。沈黙が長いのは、相手の発言をちゃんと待っているから。いつも表情が変わらないのは、相手を不快にさせない表情を悩んでしまうから。言葉がどこか冷たいのは、不器用だから。
「最初は、寂しそうな瞳が気になったのです。けれど、悠真お兄様を知るたびに、宝物を見つけたような気持ちになって、好きな気持ちが大きくなって、もっと知りたくなったのです」
「……俺は、そんないい人間になった覚えはない」
「それでも、これから嫌な所を見つけても、大好きなのは変わりませんから」
「……なんでそんなに拘るのか、やっぱりお前はよくわからない」
「そうやって私の事を知ろうとして下さる所も好きです」
「……これがブラコンというやつか?」
「あら、違いますよ悠真お兄様」
私はただ、片想いの相手に好きと伝えているだけですよ。
珍しく自分でもわかる程表情を変えた俺に、紗奈が笑う。いつしか心の拠り所にしていた、花咲く笑顔で。
流れる季節は、出逢った春から、互いと過ごす初めての冬に入ろうとしていた。