銀の柱
ジャック・フロストの訪れる季節がやってきた。今朝も、居間の暖炉には勢いよく火が焚かれている。薪の爆ぜる音が時折響く暖かな居間を、そっとのぞき込む二つの影があった。
「いる?」
「いない……いや、いる。モニカだ」
「それはまずい」
二つの影はひそひそとささやき交わす。
「向こうを向いた、今がチャンスだ」
「行ける?」
「行こう」
二つの影は顔を見合わせてうなずき合うと、大急ぎかつ音をたてないように居間を駆け抜けた。一陣の風が吹き抜けた家の中で、侍女のモニカは不思議そうに首を傾げた。
シルウァ伯爵家には三人の問題児がいる。一人は伯爵家第三子にして長男、この館の坊ちゃんである。ただ、彼のいたずらの多くは、男の子だから多少やんちゃな方が良い、という理由で許されていた。もう一人は園丁の子アケルの妹弟子たる当主の姪、イリスである。彼女の好みはいきもの全般であったが、どこからともなくイモムシを連れてきては庭の草を食べるか実験し始めることはともかくとして、植物栽培やらなにやらは淑女の趣味が行き過ぎただけと見ることもできた。問題は伯爵家の末っ子、三女にあたるルティである。彼女の好きなものは土と水、つまり泥である。
そもそも、ルティというのはあだ名だ。ある日泥だらけになった彼女の様子を見た一番上の姉が、沼沢地のケルピーとでも遊んできたの、と言ったことに由来する。それ以来、彼女の所在を訊ねられた人は皆ふざけてルテティアにでもいるんじゃない、と答えるようになり、いつの間にかそれが名前になってしまったのである。
ルティは泥を見つけるととりあえず指を突っ込む。そしてかき回す。今まさに泥、というものに限らず、泥だったもの、も好きである。泥が乾いたときのひび割れ、土の上に水流がつける文様、そういったものにルティは美を見出す。だから水やら氷やらをそこらの土の上ににまき散らすのも好きだ。そうこうしているうちに、スカートの裾がいつの間にか泥だらけになり、館の女性陣一同に顔をしかめられるのである。
「なんで女の子だからって服を汚しちゃいけないのよ。兄さまは許されるのに」
ルティの不満はもっぱらそこにある。年子の兄は、庭を駆け回って泥を跳ね飛ばしても大して怒られないのに、自分ははしたないと叱られる。幸か不幸か、身近に比較対象がいたことが、ルティの不満を増大させたのである。
二つの影は庭に飛び出すと、まっしぐらに秘密基地へと向かった。案の定、そこではイリスとアケルが箱を覗き込んで何やら相談していた。荒い息と足音に振り返った二人は、驚いたように目を真ん丸にした。
「どうなさったの、兄さま……が、二人……?」
イリスの言葉を聞いて、兄さま、と呼ばれた二つの影は大笑いを始めた。肩で息をしながら苦し気に腹を抱えるその声を聞いて、イリスはさらに目を真ん丸にした。
「ルティ姉さま……?」
そう、泥だらけのスカートをさんざん怒られたルティは考えたのである。自分はスカートを汚すと怒られるが、兄がズボンの裾に多少泥を付けたところで怒られることはない。ならば、自分もズボンをはけば良いじゃないか。幸い、年子の兄とは体格がほとんど変わらない。そう兄に相談したところ、兄はおもしろがって服を貸してくれた。そして敵の眼を掻い潜って館を脱走し、ここへやってきたのである。
「それなら、お一人ずつ出ていらしたらよかったのに」
イリスは言った。何しろこの兄妹は顔がよく似ているのだ。たしかに、ルティが兄の服装をすれば、遠目には兄と区別がつかない。けれども兄みたいな人が二人もいたら、どちらかが偽物だとばれてしまうじゃないか。
それもそうだ、と兄妹は賛同した。そして次回はそうしよう、とうなずき合った。それを見ながらアケルは、また妙な秘密に巻き込まれてしまったと頭を抱えた。これがばれたときに一番叱られるのはきっと自分なのだ。だから呆れた口調になるくらい、許してほしい。
「今日は何をしでかそうってんですか」
呆れ顔で言うアケルを、ルティはキッと睨みつけた。そして空を指さした。
「空を見なさい!」
「良い天気ですね」
「地を見なさい!」
「なんか白いものが見えますね」
「そうよ、今日は絶好の霜柱掘り日和よ!」
なんだそれは、と思いながら、アケルは深々とため息をついた。
園丁からすると、霜柱は土を崩し植物の根を痛める厄介な存在である。だがルティにとっては芸術作品である。至高の芸術家であるジャック・フロストの彫刻を人の眼に触れぬまま溶けるに任せるなど、罪に等しいとこのお嬢さんは言うのである。そして植物の根を守るためにアケルと父がせっせと運んだ藁を見て、芸術の侵害だと不平を言い、どけてほしいとまで言うのである。尤も最後の意見に対しては、植物好きなイリスが反論したので却下された。
館に近い庭は園丁によって霜柱対策がされており、さらに館の住人に見つかる危険性が高いため、変装したルティという後ろ暗い存在を抱える四人は館から離れた雑木林に向かった。
吐く息はすっかり白い。空はよく晴れているが、冬の日差しは弱い。すべての熱が空へ逃げていくようで、曇っていた方がむしろ暖かいのだけれど、とアケルは恨めしげに真っ青な空を見上げた。そんなアケルと対照的に、ルティは上機嫌だ。左手に桶を抱えて、右手には移植ごてを持っている。
アケルの知るところによると、霜柱は踏むものであり掘るものではない。そう言っては芸術がどうのと叱られるだろうか、とアケルが躊躇しているうちに、同じ疑問を持っていたらしい坊ちゃんが言った。
「霜柱掘り、ってどういうことだ?掘る前に壊れるだろ」
「だって、世の中には拳より大きい霜柱があるっていうんだもの。ねえイリス」
突然話を振られて、木々の様子を見ていたイリスは驚いて振り返った。
「拳より大きいったって、イリスの拳だろ。掘るほどじゃないじゃないか」
「まあ失礼しちゃいますわ。私の拳だって、ふつうの霜柱よりは大きいわ。それに、私が昔見たのはお父様の拳より大きかったですわ」
いつもみんなから小さい小さい、と言われるイリスは憤然と反論した。そして、このくらい、と手で大きさを示して見せる。本当にそんなのがあるのか、と坊ちゃんは疑わしげだった。
「で、そのでっかい霜柱はどんなところにあるんです?」
アケルの言葉に、イリスは首をかしげる。
「あの時は確か、森の中で、少し土が崩れたような斜面だったかしら」
「それなら確かに、この庭の中ではここが一番近いですね」
霜柱にも出やすい場所というのがあるらしい。踏み固めて砂をまいた道では見なかったし、落ち葉が厚く降り積もった下にも無いようだった。毎年霜柱を踏んで遊んでいた気はするのに、いざ探すとなると見つからないのが不思議だった。時折見つかる霜柱も、イリスの指ほどもない小さなものばかり。最初は勢い込んでいたルティも、徐々に元気をなくしていった。
「やっぱり、ないんだよ。拳よりでっかい霜柱なんて」
坊ちゃんがそう言って、白と茶色の入り混じった地面を蹴っ飛ばした。ごく普通の霜柱だとわかり、ルティ隊長から踏んで良いと許可の出たものだ。蹴っ飛ばされた土がズボンに飛び散って、ルティは口をへの字に曲げた。
「あれを見たのは、もう少し寒いところでしたから。この辺りにはできないのかもしれません」
イリスもそう言って、手袋について溶け始めた霜柱を払い落とした。何のことはない、二人ともそろそろ寒くなってきたから暖かい部屋に帰りたいのだ。実は同じ気持ちであるアケルも、口添えをすることにした。とは言え、使用人である彼は暖炉の前でぬくぬくと過ごせるわけではないのだが。
「霜柱は日が高くなると消えてしまいますから」
アケルはそう声をかける。それでもあきらめきれない様子のルティを見て、アケルはふっと息をつき、できるだけにこやかな表情を心がけて言った。
「明日、また探しましょう」
ルティは眉をぎゅっと寄せて、うなずいた。
その次の日の朝早くことだった。庭を巡回していたアケルは、庭のはずれの斜面にきらきら光るものが露呈しているのを見つけた。近づいてみると、それは柱状の氷の塊だった。イリスの言っていたのはこれのことか、とアケルは一人納得した。そしてさんざん悩んだうえで――面倒なことになりそうだから秘密にしておこうかとも思ったのだが――昨日のしょんぼりしたルティの様子を思い出し、今日はこの辺りを探そうと提案してやることにしたのだった。




