再び
逆剥太郎は小屋の中でくつろいでいた。無人島とはいえ、猫が一日で歩き回れるというほど小さな島でもない。かつて人間が住んでいたこともあるのだろう。島にはところどころ、廃墟としか見えないような建物がある。博士が結局洞窟を研究所とすることを選んだように、住めるような代物ではない。
ただし、逆剥太郎は猫である。ゴンザレスはコモドドラゴンである。ただの岩場だろうと廃墟だろうと、関係が無い。
既に日は高い。日光を苦手とするメイドたちと出くわすことも無い。
逆剥太郎は日光浴を楽しんでいた。暖かいところを探すのは得意である。
ゴンザレスも同じようにまどろんでいた。ゴンザレスはご機嫌である。変温動物のトカゲは、日光浴をしないと体温をあげられず、まともに動けないらしい。
「ゴンちゃんが動けるなら、もうメイドも怖くないニャー」
油断しきって腹を見せて転がる逆剥太郎だが、ゴンザレスは意外と冷静だった。
「メイドが出る夜には、また体温が下がるのう」
「じゃあ、いつメイドと戦うニャ?」
「だから、メイドと戦っても勝てないのだのう」
戦いは常に夜だからである。
「使えないニャ」
「仕方ないのう」
並んでいると捕食者と被捕食者にしか見えないほどサイズは違うが、ゴンザレスの性質はおとなしかった。おかげで、逆剥太郎も安心して昼寝ができるのである。
「柳生ピロシはどうなったかニャー」
逆剥太郎とゴンザレスを逃がしてくれてから、合流していない。
「武器を持っていたから、強いのだのう」
どれだけ頭が良くなっても、話すことができても、動物の手では道具を扱うのは難しい。ウサギの柳生ピロシは刀を持っていた。どうやって持っていたのかは謎だが、武器を持っていた。逆剥太郎は片目を上げ、ゴンザレスのたくましい足を見た。長い爪は、どんな硬いものでも簡単に引き裂きそうに見える。『武器を持っていたから強い』とゴンザレスが言うのが、なんとなくおかしかった。
耳が動いた。逆剥太郎の耳が、ぱたぱたと動いた。
――音ニャ?
あまりにも耳がいい猫族は、耳が反応してから物音に気付くことがある。音自体はかってに聞こえてくるので、警戒が必要な物音だと理解するのが遅れるのだ。現在もゴンザレスの内臓の音がやかましく聞こえているので、不思議な物音に反応が遅れた。顔を持ち上げ、注意して耳を澄ました。
「足音だニャ」
気持ちよさそうにうたた寝していたゴンザレスも、頭部をのっそりと上げた。
「わしには、聞こえないのう」
足の踏み方、歩き方から、逆剥太郎はメイドを思い出した。全身の毛が逆立つ。
「……ゴンちゃん、メイドは昼間外に出られないはずだニャ?」
「日光は苦手らしいのう。ただし、中には日傘という特殊なものを使って、外に出られるメイドもいると聞いたことがあるのう」
まったく嬉しくない情報だ。足音は一人のものではない。
――たぶん……三人だニャー。
逆剥太郎の耳が激しくざわめく。
「どうしたのかのう?」
毛を逆立て、耳を動かす逆剥太郎に、さすがにゴンザレスも心配になったらしい。
「ちょっ、ちょっと、見てみるニャ」
じっとしていられなくなった逆剥太郎は、廃墟の壁をよじ登り、外を覗いた。顔をひょっこりと出した。
目が合った。
どんぐり色の澄んだ瞳は、闇を好む者とは思えなかった。ただし、肌は死人のように白い。太陽の光を嫌っているためだろうと、納得できるほどだった。闇メイドとは、島のしゃべることができる動物達がつけた呼び名である。闇でないメイドがいるのかどうかは、逆剥太郎は知らなかった。考えたことも無い。メイドはすべからく、闇を好むのだと思っていた。
メイドは驚いたように目を見開いていた。逆剥太郎は明るい場所に顔を出したはずなのに、突然日がかげった。メイドが掲げるある道具が日光をさえぎったのだと知ったとたんに、ゴンザレスの言葉が脳裏をよぎった。
目の前のメイドが振り返る。背後を見た。その先には、さらに二人のメイドがいた。大きなパラソルを二人で持ち、よろめきながら従っていた。二人ともあちこちに絆創膏が目立つ。どこかで派手に転んだかのようだ。
「猫よ! ミカ! クミ! 殺しなさい!」
「ニャー!」
咄嗟に逃げればよかったのかもしれない。だが、あまりの恐怖に逃げることもできなかった。本能で対抗した。全身の毛を逆立て、口をいっぱいに開いて威嚇の声を上げたのである。
「えーっ……やだよぉ。メイド長、自分でやってよぉ」
「体が痛くて動けないんだよ」
クミとミカが口々に文句を言う。メイド長と呼ばれたメイド、白鴎カレンはエプロンドレスのポケットから鞭を取り出した。
「まだ懲りないようね」
鞭をびしりと地面に打ちつける。
「お仕置きなら、『ご主人様』のが良かった。メイド長の、痛いだけだもん」
「オレはどっちもやだ」
文句を言いながら、ミカとクミが動き出した。怪我のためかやる気のためか、動きはあまり早くない。それでも、逆剥太郎には十分な恐怖だ。
「僕は、しゃべれないニャー」
咄嗟に嘘をついた。それ自身、しゃべっているのであるが、必死なのでそこまでは考えなかった。白鴎カレンは笑った。顔だけである。あまり、好きになれる笑い方ではなかった。
「関係ないのよ。猫だけは、皆殺しにしろという命令が『ご主人様』から出ているのです。可愛そうだけれどね」
「可愛そうなら、見逃してくれニャー」
白鴎カレンは小さく首を振った。ミカとクミが逆剥太郎に迫る。
「ニャァァァァァァーーーーー!」
単なる恐怖の絶叫である。ミカがパラソルを支えながら、ポケットから小さな果物ナイフを取り出した。料理をするメイドの必需品である。ミカが料理をするかどうかは、逆剥太郎は知らない。
恐怖で体が硬直した逆剥太郎に、メイドたちが迫る。風が吹いた。背後からだった。
逆剥太郎の体が、背後に倒れていった。捕まっている壁が崩れたのだと解った。
落下しながら、逆剥太郎はゴンザレスの巨体が宙を飛ぶのを見た。地上最強種族、コモドドラゴンの巨体である。
ゴンザレスは逆剥太郎を飛び越え、三人のメイドたちの前に地面を揺らして降り立った。
「腹が減ったのう」
長い舌でゴンザレスが口の周りを舐めると、メイドたちが同時に恐怖の声を上げた。正真正銘、生命の危機である。
「ミカ、クミ、なんとかしなさい!」
あれだけ偉そうだった白鴎カレンの声も上ずっている。
「こ、こいつは、動かないんだ。あんまり、動けないんだ。だ、だよな、クミ」
「う……うん。じゃなきゃ、わたし達が捕まえられるはずがないもん」
「ゴンちゃん、しゃべる動物は食べちゃ駄目だニャー」
いつの間にか産まれた、動物達の暗黙のルールである。それを唯一破っているのが、当のメイドたちである。逆剥太郎は恐怖に怯えながらも、ゴンザレスをとめようとした。
「足の一本ぐらいなら、食べても死なないのう」
昨晩、逆剥太郎がいることを知らないミカとクミは、そう言いながら地下牢に下りてきたのだ。
「ミカ、クミ、任せましたよ。猫はわたくしが引き受けます」
ゴンザレスの興味が二人のメイドだと知ったメイド長は、あからさまに安心した顔をした。ゴンザレスがちらりと視線を向けると、瞬く間に顔色を失った。ただ、ゴンザレスの狙いは一人より二人だった。
「いただきますだのう」
「「キャァァァァァァーーーーー」」
怪我をしているとは思えないすばやさで、ミカとクミは駆け出した。ゴンザレスのほうが、はるかに速い。体温が戻ったコモドドラゴンは、あまりにも速い。
逃げようとする二人に襲い掛かり、掲げていたパラソルを破壊した。ミカとクミは日光を浴びて苦しそうに転がり、ゴンザレスは二人の上にどっかりと乗った。
「ゴンちゃん、凄いニャー」
あれほど恐ろしい闇メイドが、こんなにもあっさりと打ち負かされるとは思わなかったのだ。感心する逆剥太郎の上に、影が落ちた。
地面で光景を見届けていた逆剥太郎は、もう一人のことを忘れていた。
「観念なさい」
「もう一人いたニャー」
起き上がろうとした逆剥太郎の頭上に、鞭が振り下ろされた。
「痛いニャー」
頭を抱えて逃げ出す。さらに尻尾を打たれた。跳ね上がった。転がる。立ち上がり、毛を逆立てる。鞭が振り下ろされる。
背を丸め、尻尾を巻き、耳を伏せた。もう、逆らえない。何よりも、心が折られた。
「観念したようね」
反論もできない。逆剥太郎は、殺されるのだと思った。
突然、太陽が戻った。白鴎カレンの手から、日傘が飛んでいた。
「ニャ?」
太陽の中に、小さな白い影が浮かんで見えた。
「キャアァァァァァァ」
肌を手で多い、白鴎カレンが日光の中に崩れ落ちる。逆剥太郎の前に、白い影が降り立った。
「大丈夫でござるか?」
「柳生ピロシだニャー」
昨晩助けてくれた、柳生新々々々々陰流の使い手である。ちなみに、ウサギだ。怪我をしているように見える。着物と思われる服を着ているが、むき出しの頭部や手足に、毛が剥げて血がにじんでいるのが見えた。
「逆剥太郎には、指一本触れさせないでござる」
「怪我をしているニャー」
「これしき、怪我ではござらん」
柳生ピロシの手には、小さな刀が張り付いていた。白鴎カレンがもんどりうちながら日傘を拾った。柳生ピロシが再び日傘を飛ばそうと跳ねる。
空中で、白ウサギが殴られた。白鴎カレンは日傘を振り回し、柳生ピロシの動きを防ぎながら頭上に掲げた。鞭を振るう。柳生ピロシの胴体に打ち下ろされた。
「小動物が、このわたくしに逆らうおつもりなの?」
廃墟の床にウサギが転がる。逆剥太郎が駆け寄った。
「逃げるニャ」
「なんの! まだまだ」
柳生ピロシはふらついていた。かなりのダメージなのだ。白鴎カレンの鞭の威力は、逆剥太郎もよく知っている。
「お黙り!」
逆剥太郎と柳生ピロシが左右に分かれた。真ん中に鞭が落ちる。白鴎カレンは舌打ちをした。標的が増えたことで、狙いが曖昧になっているのは間違いない。柳生ピロシが迫った。白鴎カレンに足で払いのけられた。逆剥太郎が飛び上がった。白鴎カレンが振り向いた。
両腕を、爪を伸ばして懸命に振るう。逆剥太郎の爪により、白鴎カレンの白い肌に赤い筋が走った。
床に下りる。白鴎カレンが悲鳴を上げて顔を抑えた。
「逃げるんだニャ」
「チャンスでござるな」
「この程度で、わたくしをどうにかできるとお思いなの!」
メイド長はさすがに手ごわい。顔を抑えた手を離し、傷だらけの顔で鞭を振り上げた。
鞭を振り上げたまま、白鴎カレンの動きが止まっていた。
険しい顔で白鴎カレンが振り返る。
鞭の先端を、ゴンザレスが踏んでいた。
血まみれだった。特に、口の周りである。口元だけでなく、首にまで滴っていた。まだ、滴り落ちていた。
「……あ……あの……あの子たちを……」
「美味かったのだのう」
「キャアァァァァァァァァァ!」
鞭を捨て、日傘を掲げ、白鴎カレンは逃げ出した。闇メイドは闇を好むが、それ以上のものではない。日光は苦手だが、食料にされるより火傷することを選んだのだろう。コモドドラゴンが万全の体調なら、勝てるはずがないのだ。
「ゴンちゃん、助かったニャー」
コモドドラゴンのゴンザレスはメイドを食べてしまったのだろうか。逆剥太郎は、まだ聞くことができずにいた。いまはただ、自分の命が助かったということだけで、それ以外のことは何も考えられなかった。
脱力して廃墟に座った。
「場所を移動したほうがいいでござる」
柳生ピロシの提案にも、動く気にはなれなかった。
ゴンザレスがのんびりと脇を通る。逆剥太郎は、ゴンザレスに登りあがった。