新しい仲間
凄まじい咳の音と共に、逆剥太郎が飛び出した。大砲から打ち出されたかのような勢いだった。
習性でくるりと回転し、たたきつけられる前に、眼前に迫る平たい壁に四本の足をついた。勢いを殺し、殺しきれず腹が壁に触れた。
しばらく踏ん張り、次いで落ちる。逆剥太郎を壁に押し付けようとする力が消えれば、後は落下するだけだ。石の床だった。ぺたりと落ちた。
「酷い目にあったニャー」
全身が粘液でべたべたである。ゴンザレスの唾液だ。逆剥太郎はうっかりゴンザレスの口に飛びこんでから、ずっと出られずにいたのだ。
文句を言おうにも、当のゴンザレスは逆剥太郎を吐き出してから、ずっと咳き込んでいた。苦しそうに咳を繰り返し、荒い息を吐いてようやく収まった。
「ゴンちゃん、病気ニャ?」
「毛玉をずっと喉の奥に入れていたから、むずがゆくて苦しかったのだのう」
「『毛玉』? 僕のことかニャ?」
ゴンザレスは首肯した。大きく首を縦に動かすという、ただそれだけの動きなのに、凄まじい迫力だった。
「どうして我慢していたニャー? それに、どうしてゴンちゃん、メイドにおとなしく捕まったニャー。ゴンちゃんが本気で暴れれば、小さなメイドなんて、怖くないはずだニャー」
言いながら、逆剥太郎は周囲を見回した。不自然なほど平らに削られた壁と、鉄格子がはめられた壁で構成された檻だ。牢獄といったところだろうか。
「逆剥太郎が、見つかると殺されてしまうと言っていたからだのう。見つからないように我慢していたのだのう」
「ニャー」
言われればもっともだ。ゴンザレスはまだけほけほと咳をしていた。
「それに……寒いとわしは動けないのだのう」
トカゲは変温動物である。外気が寒くなると、体温が低下して動けなくなる。氷穴でじっとしていたのだ。すぐに動けるはずがない。それを、逆剥太郎が理解できるはずもなかったが。
「いまも動けないニャ?」
「できれば、動きたくないのう」
前足を、動きを確認するかのようにぱたぱたと動かした。まったく動けないわけではないようだ。
「悪かったニャー」
「気にしないのう」
逆剥太郎が頭を下げると、ゴンザレスは軽く流した。突然、逆剥太郎が黙った。耳が動く。音を捉えていた。
「足音だニャ」
牢獄の中であり、暗い上に視界は限定されている。音が反響する。近づいてくることだけはわかった。
「二人……かのう」
「だニャ」
猫族は、動物の中でもトップクラスの聴覚を誇る。人間と思われる声が聞こえた。
――「……どの牢だっけ?」
――「ミカちゃん覚えていないの? さっき閉じ込めたばかりじゃない」
メイドだ。もっとも博士が死んで以来、メイド以外の人間にはあったことがないが。
――「仕方ないだろ。暗かったんだから。じゃあ、クミは覚えているんだろうな」
――「もちろん覚えているよ」
逆剥太郎は逃げ出す方法を懸命に考えた。頭上に窓がある。駄目だ。届かない。飛び降りても怪我をする高さではないが、飛びつくには高い。窓まで、登れるような凹凸もない。
「逆剥太郎、逃げたほうがいいのう。わしと違って、逆剥太郎は見つかったら殺されてしまうのう」
ゴンザレスが声を落として言った。現に捕まっているゴンザレスが、この後どんな目にあうのかまったくわからないのに、ゴンザレスは逆剥太郎に逃げろと言った。
「でも、逃げられないニャ。あの窓は、僕にも高すぎるニャー」
巨大な首が振られる。ゴンザレスが、鉄格子を示したのだとわかった。牢獄の一面のみ、壁ではなく鉄の棒で格子が作られている。
「ニャ?」
「逆剥太郎の体なら、通り抜けられるのう」
「……本当だニャ」
鉄の格子は、比較的間隔が広かった。捕まえたのをゴンザレスだけだと思っているメイドが、逆剥太郎のことを考えていないのは当然でもある。逆剥太郎は大柄だったが、あくまで猫としてである。体が柔らかい猫であれば、通り抜けるのは簡単だった。
「……でも、ゴンちゃんを置いていけないニャ」
「気にすることはないのう。さっき会ったばかりだのう」
逆剥太郎同様、ゴンザレスも昔のことはあまり覚えていないらしい。逆剥太郎も覚えていないので、互いにまるで初対面のように言葉を交しあった。ゴンザレスの言葉を、逆剥太郎は否定した。
「その、さっき会ったばかりの僕を、ゴンちゃんは助けてくれたニャ」
「わしなら、メイドには負けないのう」
確かにゴンザレスはたくましい。外見は強暴ですらある。
「そ……そうニャ?」
鉄格子の隙間から、逆剥太郎は頭を出してみた。周囲は暗い。足音は近づいてくる。それほど遠くにいるとは思えないが、いまなら見つからずに済むかもしれない。メイドの声が聞こえる。
――「でも、ミカちゃん、コモドドラゴンを味見して、死んじゃったらどうする? お仕置きだよ、きっと」
――「でっかいトカゲだから、死にはしないだろ。足ぐらい切っても、生えてくるかもしれないぞ。足の一本だけで、かなりの食べ応えだと思うぜ」
――「そうだねぇ……でも、もし生えてこなかったら、味見したのばれない?」
――「はじめから足が一本無かったって言えば、わからないさ」
逆剥太郎は震え上がった。メイドは、ゴンザレスを食べるつもりなのだ。
――「さっすが、ミカちゃん天才」
――「まあな」
楽しそうに話すメイドたちの声に、逆剥太郎がゴンザレスを振り返った。ゴンザレスは小さく首を振った。『行け』そう言われているのはわかった。逆剥太郎は首を振り替えした。
「ゴンちゃんは僕を助けてくれたニャー。見捨てられないニャ」
――「声がしたか?」
――「コモドドラゴンでしょ? 捕まえるときも、ニャーニャー言っていたし」
――「そうだな」
逆剥太郎は逃げなかった。
二本足でゴンザレスの前に立ち、二人のメイドと対峙した。
人間としては、メイドとしても、小柄かもしれない。背格好は二人とも似ていた。ただし、逆剥太郎から見れば、どちらも巨大だった。メイドの見分けなどできなかった。
牢が開いた。
メイドが牢を覗く。手が伸びる。
逆剥太郎の顔を撫でた。
――「ひゃっ!」
――「ミカちゃん、どうしたの?」
――「トカゲに毛が生えた」
見えていないのだ。メイドとは、不便な生き物なのだ。
「ゴンちゃん、今なら逃げられるニャ。まだ動けないニャ?」
「ゆっくりなら動けるのう」
「それじゃ駄目ニャ。すぐに追いつかれるニャー」
「だのう」
再び手が近づいてくる。
――「本当だ。ミカちゃん、でもこれ気持ち良いよ」
――「まあ……な……」
二本の手に顔を撫で回され、逆剥太郎は喉をごろごろ鳴らしそうになった。つい、和むところだ。
「止めるニャー」
「そうでござる。止めるでござる」
突然声が頭上から降ってきた。
「ニャ?」
首の関節も柔らかい逆剥太郎は、ゴンザレスの前に立ったまま首をめぐらせた。先ほど登るのを諦めた明り取りの窓に、黒いシルエットが浮かび上がっていた。シルエットは黒いが、顔は白い。ただ白いのではない。真っ白だ。
「誰だニャー」
「拙者、柳生新々々々々陰流二五〇代目柳生ピロシでござる。闇メイドめ、観念するでござる」
顔が毛に覆われ、頭上に長い耳がぴんと立っているのを、逆剥太郎の猫の目は捉えていた。
「ウサギだニャー」
「いかにも。しかれば、拙者剣客にござる」
明り取りの窓から侵入したらしい、逆剥太郎同様柔軟な体の持ち主は、天高くふわりと飛び上がった。天井に頭をぶつける。
落ちた。
「大丈夫かニャ?」
逆剥太郎は覚えていた。博士のところで幸せに暮らしていた頃、見知った顔だった。そのときは、着物など着ていなかった。刀も持っていなかった。一体何があったのかはわからない。しかし、宣言するとおりに強いなら、味方なら、誰でもいい。
「む……無論……」
ぶつけた頭だけでなく、落下したため全身を打ちつけていたが、全身を覆う毛皮のお陰かすぐに立ち上がった。
「おい、誰かほかにいるのか?」
メイドが尋ねた。
「コモドドラゴンだけじゃないの?」
警戒してか、逆剥太郎を撫で回す手が引いた。
「暗闇で目も見えないメイドなど、拙者の敵ではござらん。ここは任せるでござる。逆剥太郎、ゴンちゃんどの、先に行くでござる」
たくましい後ろ足で飛び上がり、柳生ピロシが刀を振り下ろすのがわかった。後ろ足がたくましいのは、脚力が発達しているからだ。体の大きさに比べて、実に後ろ足が大きい。ただし、あくまでも小動物として、である。
柳生ピロシの振り下ろす刀は、星の明かりを受け、鮮やかに輝いた。
「……痛っ……クミ、明かりだ」
「うん。だから、はじめから、暗いから松明持ってこようって行ったのに。地下牢じゃ見えないもん。それなのにミカちゃんが、『ご主人様』に見つかるとまずいからって……」
「いまさら、そんなこと言っても仕方ないだろ。それより、しゃべる動物が増えたぞ。捕まえるんだ」
メイドたちが駆け出した。明かりを取りに行ったのだろう。誰もいない。
「逃げるチャンスだニャー」
逆剥太郎は牢の外を見回した。まだメイドの足音が響いている。すぐに戻ってくるだろう。
「ゴンちゃん、動けるニャ?」
「歩くぐらいなら、できるのう」
ゴンザレスが体をゆさゆさと振ってみせた。
「十分でござる」
柳生ピロシが胸を張った。
「でも、どうして僕達を助けてくれるニャ?」
「逆剥太郎は希望でござる」
「ニャ?」
なんのことか解らなかった。逆剥太郎はただの猫だ。服を着て、立って歩き、話す。それ以上のものではない。
「いまは時間が惜しいでござる。説明は後にするでござる。敵は拙者が相手するでござる。お二人とも、逃げるでござる」
「悪いのう」
ゴンザレスも、死にたいわけではもちろん無かったのだ。のさのさ歩き出した。動きは鈍い。ただし、一歩が大きいので決して遅くはない。本気で走ればどれだけの速さになるのか、逆剥太郎にも想像ができなかった。
「……あっ、逃げてるよう」
メイドの声と共に、松明の明かりが牢内を照らした。
「見つかったニャ」
照らし出されたのは、ゴンザレスに逆剥太郎、柳生ピロシである。
「猫もいる! クミ、逃がしたらお仕置きされるぞ」
「……私、あれ好きかも」
メイドは顔を見交わした。片側がもじもじしている。
「『あれ』って、『お仕置き』か?」
「うん」
「オレは嫌いだ」
「じゃあ、ミカちゃんの分も私が受けてあげる」
「助かったニャ」
てっきり逃がしてくれるのかと勘違いした逆剥太郎が脇を通り抜けようとすると、首の皮をつまみあげられた。身動きがとれない。逆剥太郎はただされるままに、手足をすくめることしかできなかった。
逆剥太郎は、宙高く吊り上げられた。メイドの顔の前に持ち上げられる。抵抗もできず、ただ手足をだらりと垂らした。
「先に行くのう」
ゴンザレスがのそのそと通過する。
「ミカちゃん、大きいのが逃げる。わたし達のおやつ……」
「オレだって、あんなでかいの怖いんだよ」
「放すでござる!」
柳生ピロシの甲高い悲鳴と共に、逆剥太郎の首をぶら下げていた手が離れた。逆剥太郎は華麗に回転し、地面に降りた。
「逃げるニャー!」
「あっ……待って。お仕置きされちゃうよう」
「ニャ?」
思わず立ちどまった。逆剥太郎は振り向いた。メイドの訴えが、あまりにも困っているように聞こえたのだ。
「クミ、さっき好きだって言ったじゃねぇか」
「……だって、ミカちゃんが嫌がっているから」
白い体がさらにひらりと舞った。逆剥太郎の目の前に降りる。
「逆剥太郎、メイドに同情していると、殺されるでござるぞ」
「そうだったニャ」
メイドは、猫を見つけ次第殺せと言っていたのだ。同情をしている余裕などないのだ。ゴンザレスはどすどすと出て行ってしまっている。わざわざ振り向かずとも、逆剥太郎には足音でわかった。
「逆剥太郎、行くのでござる!」
白兎のたくましい足が、逆剥太郎を蹴飛ばした。
「ニャー!」
柳生ピロシの覚悟を無駄にはできない。逆剥太郎は男気に負けた。ゴンザレスを追いかける。
どうして助けられたのかはわからない。しかし、いまは逃げるのだ。
夜は明けようとしていた。
――これで、少しはゆっくりできるニャ。
白み始めた空を見て、逆剥太郎は大きく息を吐いた。メイドたちは太陽の光が苦手なのだ。これまでの経験からいっても、追ってくるとは思えなかった。逆剥太郎はもともと長期戦が得意ではない猫族である。ゴンザレスに追いつくと、ゴンザレスの背中に飛び乗ってうたた寝を始めた。