悲劇の始まり
ハウスベルスト博士は、砂浜で奇妙なものを目撃していた。停泊した軍艦であるが、あまりにも時代がかっている。大航海時代のような木造の帆船に、艦橋部分に天守閣風の城が乗っていたのだ。
研究の失敗作を捨てようと木箱に詰めたところで、いつものように逆剥太郎が飛び込んできたのだ。そのまま木箱をもって海岸に来てしまった。船自体に興味はなかった。人が乗っているにしても、研究を邪魔さえしないのなら、相手にするつもりもなかった。
だが、動物たちが騒ぎ立て、博士も船を放置はしておけなくなった。動物達がただ騒ぐだけならいいが、その声がすべて理解できるとあっては無視もできない。
停泊している、というと語弊があるもしれない。あきらかに出航できないほど、砂浜に乗り上げていた。遭難したのだろうか。仕方なく、博士は失敗作を詰めた箱を抱えたまま、巨大な軍艦を見上げる位置まで来ていた。
考えようによっては、面白い相手かもしれないと思っていた。
珍しい動物を乗せているといいが、さすがに期待はできないだろう。せめて、会話が可能な国の人間でもいてくれたら、暇つぶしにはなる。動物相手の会話は、内容が一貫しないため、十分に満足できるといったものではないのだ。
しかし、博士は現在の島の状況が、外部に漏れることを恐れてもいた。永遠に公表されることの無い実験結果だと思っていたのだ。二足歩行し言葉を話す動物たちに、通常の人間たちがどんな反応をするのか、想像がつくのだ。
はじめは面白がるだろう。だが、いずれ脅威と感じるか、神への冒涜だと言い出すのは目に見えている。
ハウスベルストは手に抱えた木箱に、ため息をもらした。木箱の中身はがたがたとゆれている。このまま海に流してもいいだろう。まったく新しい、特殊な生物を作ってしまったのだ。海に流したぐらいで死んでくれればいいのだが、ハウスベルストにもそれで死ぬという確信は無かった。
博士の予想を裏切り、あるいは予想通りに、船からは人間が降り立った。予想と違うのは、降り立ったのが華奢な体つきをした、可愛らしいメイドだったことだ。
「ここは、なんという国ですの?」
よほど偉い方に使えていると思われる言葉遣いで、砂浜で見かけた唯一の人影であるハウスベルストに声をかけてきた。日傘を差したメイドは、ルルと名乗った。
「ここは無人島です」
「それはおかしいですわ。だって、人がいるじゃありませんか」
なるほど無人島とは言わないのかもしれない。ハウスベルストが住んでいるのだ。
「私も遭難者でして。他には誰も住んでおりません」
ややこしくなるので、ハウスベルストは説明を省いた。
「そんな……では、船の修理はあなたができるんですの?」
強引なメイドだ。そんなことができたら、誰もいない島で報われない研究などしているはずがない。もっとも、ルルと名乗ったメイドに、ハウスベルストが科学者だとは名乗っていなかったが。
「お困りのようでずが、私には何もできません」
「困ってなど……私を見くびらないでいただきたいものです。私はただ、姉であるララ王女の亡命の途中なだけなのです。どこか大きな国に亡命して、国を取り戻すのです。船も疲れますでしょ? だから、砂浜で休憩させているのです」
ルルは背後の船を指差していた。ハウスベルストが見上げると、甲板の上に可愛らしい顔が鈴なりになっている。全員おそろいのヘッドドレスを装着しているところを見ると、メイドなのだろう。
とても交渉とは思えない言い振りだったが、困っているのは確かなようだ。複雑な事情を抱えてもいるのだろう。博士は可愛そうに思った。
「水と食料は分けてあげることもできますが、私の分もそれほどあるわけではない。なんとかして、船を直すのですね。あれだけ人がいれば、なんとかなるでしょう?」
ルルは胸を張った。張るほどの胸もなさそうだが、とにかく体をそらした。
「見くびらないでと言ったはずですわよ。わたくし達に大工仕事など、できるはずがございませんわ。はたきより重いものなど、どうして運ぶことができましょう」
ハウスベルストは首を振り、持っていた木箱を砂浜に置いた。相手をするのが面倒くさくなったのである。
「好きになさい」
背中を向けた。砂浜に多くの人間が下りたのを、足音で理解した。
「ルル様、これは贈り物ですね?」
声が聞こえた。メイドたちが『これ』と呼んだのは、実験の失敗作を入れた木箱だと思い出した。
「駄目だ」
振り返る。
遅かった。
木箱は開けられ、中から白い物体が飛び出していた。
その物体は、真っ白い皮膚に、黒ぶちの眼鏡のような模様が浮き上がり、目と鼻と口に脂ぎった頭髪をそなえていた。まん丸の、まるで太った人間の頭部のようなものから、両生類を想像させるぬめった腕が四本生えている。
「ひぃいいぃぃぃぃぃっっっっ……」
メイド達が悲鳴を上げ、砂浜で起用にあとずさった。
「こ、これは何ですの!」
気丈にルルが進み出た。日傘をたたみ、武器として振り上げた。
応えたのは博士ではなく、『これ』と呼ばれた失敗作である。
「メ、メイド……メイド……」
喜んでいる。そう思わせる声だった。
「あなた、これはなんの嫌がらせですの!」
「私のせいじゃありませんよ。私はこれを捨てに来たんだ。勝手に開けたのはあなた方でしょう」
話している間も、白い物体は『メイド……メイド……』と繰り返しながら、左右にふるふると震えていた。
形がぶれた。
横に伸びたと思った時、そのわずかに後には、左右に分かれていた。
分裂したのだ。
「こりゃいかん」
博士は思わず言った。白い物体は、あっというまに増殖した。
「きゃぁぁぁぁぁっっっっ……」
メイドたちが走って逃げる。ひとりルルだけは踏みとどまった。逃げたものを追う習性でもあるのか、無数の白い物体が、船に戻ろうするメイドたちを追いかけた。
「大丈夫ですか?」
博士は、他のメイドたちに踏みつけにされて倒れるルルに手を伸ばした。ルルに興味があるわけでも同情したのでもなく、人としての習慣である。
「あれは、なんなのですの?」
責任を博士に押し付ける気力も失せたらしい。博士はうなずいて言った。
「私はオタク族と呼んでいます。この島の固有種族のようです」
名前は見た目から、いまつけた。後半はまったくのでたらめである。
「……そう」
よほど衝撃だったのか、ルルは一言発すると、意識を失ってしまった。
――やれやれ……まあ、ほうっておいても害はない……か?
どうしたものかと船を見上げたとき、博士は首に激痛が走るのを感じた。歳による関節痛、ではない。何かに刺されたのだ。
痛んだほうの首を曲げる。巨大な口があった。博士の首に噛み付いてた。
鬼だ。
日の光から逃げるように、全身を大きな植物の葉で覆っていた。その鬼の肩に、タコが張り付いていた。
「お前、なんの真似だ」
鬼と話ができるとは思えなかった。ハウスベルストは、肩のタコに問いただした。
「この島はオレの縄張りにするのである。ちょうど、あの船に大勢召使がいるみたいであるな。博士、知恵のある動物なんか、これ以上いらないのである。オレだけで十分なのである。オレとこいつがいれば、逆らう奴なんかいるはずがないのである」
タコが高笑いした。博士は持っていた注射器を、鬼の体に刺した。
どんな効果があるのか、覚えてはいない。劇薬だったかもしれないが、鬼に効くとは思えない。
博士は死を覚悟した。鬼に注射したものが、せめてタコの思い通りにならないよう、働くことを祈った。足元に倒れていたルルを隠したのが、せめてもの抵抗だった。
自分の実験におぼれ、身を滅ぼした多くの科学者のことを思いながら、ハウスベルスト博士はこの世に別れを告げた。