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6.ネコの記憶

 瞼を、開く。

 真っ先に視界に入ってきたのは、見慣れない白い大きなソファーだった。

 俺の家のソファーとは違う。うちのはベージュ色だ。そして、もう一回り小さい。

 ということは、他所の家の中か? どこなんだここは?

 確か、俺はさっきまで学校にいて、猫の妖怪と対峙して……。

 そうだ! 猫! それにチュンはどこだ!?

 体を動かそうとするが、なぜかピクリとも動かない。それどころか、俺の意思を無視して体が勝手に動きだした。

 うわぁっ!?

 俺は思わず声を上げた――つもりだった。なぜか、声が出なかったのだ。

 え、何だよこれ? 止まれ止まれ止まれ!

 懸命に頭で念じるが、体は言うことを聞かない。俺の命令を無視した体は、半開きのドアを潜り、廊下へと出た。

 そこで俺は、やっとあることに気付く。

 目線がありえないほど低いのだ。壁が高すぎて視界に入りきらない。背が低いとか、そういう次元じゃない。まるで、脚に目が付いているのかと錯覚してしまうほどの低さだ。

 動いていた体は、この家の玄関まで来て止まった。そこには、十歳ほどの見知らぬ女の子が佇んでいた。くりくりとした大きな目で、こちらをにこにこと見つめている。

 女の子は丁度靴を履き終えたところらしかった。トントン、とつま先を軽く鳴らした後、俺を、いや、俺ではない「何か」に向かって手を差し出した。


「それじゃあ、行ってくるね。ご飯を買って帰ってくるから、良い子で待ってるんだよ」


 そういうと「俺」の頭や咽を撫で始めた。


「にゃあ」


 俺でない何かが一声鳴く。


――あぁ、そうか。俺は今、猫の中にいるんだ。


 ようやく、俺は今の自分の状況を理解した。今の俺は、自分でも驚くほど冷静だった。チュンといるせいで、少し耐性ができてきたのだろうか……。確証は持てないが、これは妖怪猫が、まだ普通の猫だった頃の記憶ではないだろうか。


「あいちゃーん! 鍵を閉めるから早くー。お父さんも待ってるよー」


 考えを巡らせていたところで、外からこの子の母親らしき声が聞こえる。車のエンジンのかかる音も聞こえてきた。


「はーい。じゃあ行ってくるね、トラ」


 俺……いや、トラは玄関の戸が閉まるのを確認した後、リビングへと引き返した。






 

 一家が出掛けてから、かなりの時間が経っていた。

 トラは昼寝をしたり家の中をうろうろしたり、一人で遊んでいたりしていたが、そろそろ飽きてきたみたいだった。

 窓の外は、薄紫色に染まっている。

 いつもより帰りが遅いのだろうか。トラはそわそわし出して、落ち着きがなくなっていた。

 あの親子は、どこかで外食でもしているのだろうか。徐々に部屋の明度は落ちていく。

 だがその日、一家は帰ってこなかった。







 朝、空腹を我慢しながら家中をうろつく。しかし、一家の姿を見つけることはできなかった。

 トラは不安になりながらも、何か食べる物がないかと、家の中を探し始めた。

 キッチン、リビング、洗面所、個室――。隅々まで歩いて探す。しかし、どこにも食料はなかった。何とか冷蔵庫を開けようとしていたが、当然開くはずもなかった。

 トラは水入れ容器に残っていた、僅かな水をひたすら舐めていた。

 空腹を誤魔化すかのように、その日トラはずっと寝ていた。一家が帰ってきたら、すぐに会える玄関で。

 しかしこの日も、一家は帰ってこなかった。







 七日目の朝、腹を満たすため、トラは女の子の部屋のゴミ箱をひっくり返し、僅かに散らばったお菓子の破片を舐めていた。破片と言うより、粉と言った方が正しいかもしれない。当然ながら、腹を満たすような物ではなかった。

 台所のゴミ箱は真っ先にひっくり返していたのだが、一家が出かける日がちょうどゴミ出しの日だったのだろうか。目ぼしい物は何も入っていなかった。

 僅かに残っていた水も、ついに底をついてしまう。

 トラは蛇口を捻れば水が出てくることを知っていた。だが、何度チャレンジしても猫の手では蛇口を捻ることはできない。少し古い家なのか、家の中の蛇口は全て捻って出すタイプだった。蛇口の先を舐めてみるも、滴り落ちてくる水はなかった。

 外に出れば何かありつけるかもしれないと思ったのだろう。開いている窓がないか何度も前足で押して確かめていたが、窓には全て鍵がかかっていた。

 トラは諦め、この日も玄関でずっと待っていた。

 やはり、一家は帰ってこなかった。







 何度朝を迎えたのかも、わからなくなっていた。

 トラは目を閉じ、ただひたすら横になっていた。もう、前足をピクリと動かす気力すらない。そして俺の中に流れてくるのは、トラの感情と切実な欲求。

 何か食べたい。水が欲しい。お腹減った。どうして帰ってこない?

 のどが渇いた。水。水。会いたい。

 体が動かない。何か食べたい。苦しい。帰ってきて。動けない。憎い。

 会いたい。帰ってきて。会いたい。帰ってきて。憎い。

 のどが渇いた。辛い。会いたい。水水水。

 お腹減った。憎い。何か食べたい。会いたい。会いたい。憎い。水。お腹減った。会いたい。

 会いたい。憎い。

 憎い。会いたい。食べたい。

 憎い。憎い。会いたい。

 会いたい。食べたい。

 憎い。

 会いたい。

 憎い。食べたい。憎い。会いたい。憎い憎い憎い憎い憎い憎い――――!

 俺の中に洪水のように押し寄せるのは、感情という名の荒波。

 俺の心は成す術もなく、その荒波にもみくちゃにされる。鉄棒で腕を強打した時とも、転んで足をざっくり擦りむいた時の痛みとも違う。今まで経験したことのない耐え難い苦しみに、俺はただひたすら悶え続けることしかできなかった。

 苦しい苦しい苦しい苦しい苦しい!

 誰でもいい。誰か、誰か助けてくれ! 俺をここから引き上げてくれ! この苦しみから解放してくれ!


「――護」


 やがて俺の眼前に広がっていた闇が、徐々に光へと変わり――。


「悠護!」


 ………………。

 名前を、呼ばれた。

 トラの名前ではない、俺の名前を。

 あぁ、今のはチュンの声か。


「悠護! 大丈夫か!? しっかりせぇ!」


 瞼を開けると、今にも泣きそうな顔で俺の顔を覗く、少女の顔があった。

 どうやら現実へと帰ってこれたようだ。


「チュン……」


 俺はそのまま、仰向けに倒れていた。さっきまで『トラ』と共有していた感覚が抜け切らず、全身に力を入れることができなかったのだ。

 視界一杯に広がるのは、雲一つない夜空。小さな星に混じり、明るい星が何個か見える。あぁ、ここは学校の屋上か。俺はどれだけ意識を失っていたんだ。

 しばらく、夜空をぼんやりと見つめる。今は何も考えたくなかった。


「悠護……」


 尚も不安げに名前を呼ぶチュンを安心させるため、俺はゆっくりと上半身を起こした。その瞬間、ポタリと俺の腕に落ちる雫。

 泣いていた。

 誰が?

 俺が。

 自分でも気付かない内に、俺はなぜか泣いていた。

 いや、涙が出ても仕方がないじゃないか。だって俺は、あの猫の死を体験したんだから。

 あの猫――トラはずっと待っていたんだ。

 希望と絶望の間を往来し、空腹と孤独に耐えながら、家族が帰ってくるのをずっと待っていた。でも、一家は何らかの事情で帰ってこなかった。そしてトラの家族への愛情は、やがて憎しみへと変わっていった。

 だけどそれでも、トラは家族を完全に憎みきることができずにいた。その葛藤の内に、妖怪へと変貌を遂げてしまったんだろう。


「そうだ! あの猫は!?」


 肩の袖で涙を拭い、俺はチュンに問いかける。


「おめぇに飛び掛った後、体をすり抜けてそのまま外へ飛んで行ってしもうたんじゃ」

「えっ!? すり抜け――って。本当にすり抜けただけ?」

「そうじゃが……。悠護、もしかしておめぇ、何か見たんか?」

「あぁ。あの猫の死ぬ直前の記憶を見たんだ」


 夢じゃなかったらね、と付け加える俺を見て、チュンは僅かに眉間に皺を寄せながら、視線を下に落とした。


「そう、か……」

「あの猫がどうして妖怪になったのか、何となくわかったよ……」

「…………」

「なぁ、チュン。妖怪って基本、地元密着型?」

「何じゃその言い方。でもまぁ、その通りなんじゃが。他所の地域に大移動する妖怪は、あまりおらんのぅ」

「そうか。ありがとう」

「――――?」


 これからどうすれば良いのか、はっきり言ってわからない。ただ、俺の心に芽生えたある決意だけは、確かなものだった。

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