蛤と雀
十月中旬。つい先日終わった体育祭の余韻も、すっかり教室からは消え去ってしまっていた、そんな日の午後。
俺は欠伸を噛み殺しながら、どうしたものかと、あることで悩んでいた。
五時間目の今は国語の授業をやっているところなのだが、今日の授業はいつもとは毛色が違っていたのだ。
なんでも、地元の新聞社が主催する俳句の賞に、学年規模で応募するとか。それに出す俳句を捻り出しているところだった。
俳句ねぇ……。
黒板にずらりと書かれた季語を一通り眺めてみるが、全くと言って良いほど、頭には何も浮かんでこない。風情や情緒などというものとは、あまり縁がないしな……。このまま頭が煮立ってしまいそうだ。
「考えながらでいいから、聞いてくれ」
国語の先生がおもむろに教室中を巡回しながら口を開いた。静かな教室に響くバリトンボイス。この男の先生は、こうやって巡回しながら雑談をすることが多かった。割と面白いことを言う場合が多いので、俺は毎回手を止めて聞いてしまう。
「一番長い季語は『雀海に入りて蛤となる』というやつなんだ。ちなみに、今くらいの秋を差す季語だ」
雀――。
俺は、即座にその単語に反応してしまった。同時に、大きな雀の姿が脳裏に過ぎる。
チュンはあの日、光となって俺の前から姿を消した。その日以降、俺の前に現れてはいない。あれほど目にしていた幽霊も、さっぱり見えなくなっていた。
本当に俺、取り憑かれていたんだな……。
この世のものしか見えなくなったことで、チュンは本当に消えてしまったんだと実感する日々だ。この胸の内を支配する喪失感は、なかなか消えてくれそうにない。
なあ、チュン……。本当に俺は、雀を見ても平気になったよ。動悸も激しくならないし、あれほど感じていた押しつぶされそうな罪悪感も消えた。お前が俺を許してくれたから。何より、お前とまた一緒の時間を過ごすことができたから。
お前は人間に魅入られたと言っていたけれど、それは俺も同じだよ。あれから外で目に付いた雀を、目で追ってばかりいる。気付いたら、お前の面影を探してしまっているんだ。もう、この世界にいないとわかっていても――。
心の中で彼女にそう語りかけていると、さらに先生が続けた。
「これは雀が本当に蛤に変身するという意味ではなく、中国の迷信からできたらしい。秋になると雀が海辺に群れをなして集まってくるのは、蛤の化身だからだと、昔の中国では思われていたそうだ」
へえ。蛤の化身ねえ。
何だか、チュンが使っていた幻術のことをふと思い出してしまった。
「先生。どうでもいいけど、その季語長すぎて使えなくない?」
そう聞いたのは、どの先生に対してもタメ口で接する、矢松だ。先生は特に気にした様子もなく、矢松の質問に大きく頷く。
「長いな。だから『雀蛤になる』という使い方もするらしいぞ」
「へー」
矢松は感心したような声を洩らすと、俳句用の紙にシャーペンを走らせ始めた。今ので何か思い付いたらしい。
せっかくだから、俺もその季語を使ってみるか。
考えながら、窓の外に目をやる。中庭に植えられた大きな木に一羽の雀が止まり、まっすぐにこちらを――俺を見据えていた。
俺と雀の視線が交錯する。それでも、雀は彫刻のように微動だにしない。
人間の俺と目が合っても、逃げない雀。あれは、もしかして、もしかすると――。
「チュン……?」
囁くような俺のその声は、その雀には届かなかったはずだ。しかし雀は俺を見て小さく小首を傾げた後、「チュピ!」という高い声と共に、秋の空を羽ばたき、民家の屋根上で群れをなしていた雀達の一員となった。
もし生まれ変わりというものがあるのなら、きっと今度は、普通の雀として生まれてきているに違いない。人間とは関わらず、雀としての一生を全うする。
少し寂しい気もするけれど、できればそうであって欲しい。もしも今見た雀がチュンだったのなら――これほど嬉しいことはない。
この空の下、俺達はまた、一緒の時を過ごしているってことなんだから。
俺は一度目を伏せ、小さく深呼吸をする。そして俳句用の紙にシャーペンを置くと、手は勝手に文字を記していた。
『はまぐりに なれぬ雀が チュンと鳴き』
終