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4.炎の中

 火事で一番気をつけないといけないのは、煙だ。一酸化炭素中毒で倒れたところを炎が襲うっていうのが、主な火災での死因らしい。立っているとすぐに煙を吸い込んでしまうが、足元には比較的綺麗な空気が残っているから、火災の際にはできるだけ頭を低くして逃げた方が良い――。

 と、俺は小学校の時の防災の授業で得た知識を思い返しながら歩いていた。

 あのボヤ騒ぎの日から、柴犬の姿を見ていない。連日新聞やニュースもチェックしていたが、特にそれらしい火事も起きていないようだ。

 もしかしたらあの柴犬は、既に成仏したのかもしれない。

 そんな考えが頭を過ぎる中、しかしまだ終わっていないと、俺の第六感的なものがその考えを否定する。

 始業式が始まるまで、あと三日。こうして日中ウロウロしていられるうちに、あの柴犬を止めなければ。


「あ、悠護」

「あ、波崎君」


 チュンの声と聞き覚えのある声が、同時に俺を呼んだ。振り返ると、金剛地が小走りでこちらに駆け寄ってくるところだった。チュンは俺の背後に回り、Tシャツの裾をぎゅっと掴んでくる。

 どうしたんだ? 彼女は危険人物でもないのに。


「今日も図書館に行くの?」

「いや、もう調べものは終わったから。あれから行っていないんだ」

「そうだったんだ」

「金剛地は?」

「私も、宿題が終わってからは行っていないなあ。あそこは静かで涼しいけれど、行くまでが暑いからどうもね」


 金剛地はそう言うと、小さくはにかんだ。

 やはり、もう図書館には行っていないのか。後で図書館に向かった爺さんに知らせに行かないと。しかしこれで、新学期から爺さんが学校までついて来るのは決定というわけか。

 まぁ、妖怪と幽霊を引き連れて登校するのは始業式だけだろうから、それくらい我慢するか……。

 そんなことを考えていると、金剛地が俺の隣に並んだ。

 制汗スプレーでもしているのだろうか。金剛地からは、薔薇の甘い香りが仄かに漂ってくる。こういうケアがやはり女子だな。こんなに暑いのに汗臭さとは無縁そうだ。

 ……俺、大丈夫かな?

 突然自分の汗臭さが気になってしまった俺は、少しだけ金剛地から距離を取る。


「どうしたの?」


 しかし気付かれてしまった。


「いや、その、あ、暑いからこっち側歩く? 小さいけど、一応陰があるし」

「うん。ありがとう」


 何の疑いもなく道の端に移動する金剛地。助かった。まさか「自分のニオイが気になって」とか言えるわけないし。

 そこで俺の後ろにいたチュンが、隣に移動してきた。チュンは冷えた視線をこちらに送っている。どうしたんだろう。もしかして俺、そんなに汗臭いのか!?

 チュンはふいっと顔を回すと、鋭い視線で金剛地を見つめる。いや、睨んでいる。

 だからどうして、そこで金剛地を睨むんだ……。彼女はただの人間だろう?

 チュンはひとしきり金剛地を睨んだ後、顔を前に向ける。次の瞬間、その漆黒の目が大きく見開いた。そして『それ』を視界に捉えた俺も、足を止め、固まってしまった。

 金剛地が立っている後方に、あの柴犬の姿を見つけたからだ。俺のTシャツの裾を握っていたチュンの手に、さらに力が込められるのがわかった。

 以前見た時と同じように、柴犬の目が不気味な赤に光る。離れているのに、その目の変化は、はっきりと確認することができてしまった。

 空気が凪いだのを全身で感じ取った、次の瞬間。

 柴犬の目の前の家から、ガラスが割れる甲高い音が響いた。


「きゃ!? 何!?」


 突如響いた音と現れた炎に驚き、金剛地が声を上げ後ろを向く。

 割れた窓から大きな炎が上がったのは、その時だった。


「火事!?」


 柴犬は前の時と同じように、家の壁をすり抜け、中へと入っていく。


「金剛地! すぐに消防に連絡してくれ!」

「え、波崎君は!?」

「中に人がいないか確認してくる!」

「そんな!?」

「悠護!」


 金剛地の制止の声とチュンの声を背に、俺は一目散に火の上がった家へと駆け出す。

 この機会を逃してなるものか。絶対にあの柴犬を止めてやる。

 玄関は、コンクリート製の門のすぐ後ろにあった。茶色の引戸式のその入口に、すかさず手を伸ばす。しかし、引き戸は微動だにしない。

 くそ、やはり鍵がかかっているか。

 どこか開いている窓はないか!? 俺は左手側に向かって駆け出す。角を曲がると、そこは小さな庭だった。花壇には白やピンクの、様々な種類の花が植えられている。

 その向かいに、大きな窓があった。白のカーテンが架かっていて、中の様子はわからない。俺はその窓に駆け寄り、玄関と同じく開けようと試みるが、ここも鍵がかかっていた。

 くっ、時間が惜しい。開いている窓を探して回るより、ここは確実な方法を選ぼう。

 手入れされた庭の隅に、使われていない小さな丸型の鉢植えが置いてあるのを見つけた。

 一瞬だけ罪悪感が沸き上がってくるが、今は緊急事態だ。後で何か言われるかもしれないが、事情はその時に考えればいい。

 俺は鉢植えを手に取ると、窓の鍵付近に向けて、思いっきり叩きつけた。

 甲高い音を立て、窓ガラスに歪な穴が空く。強化ガラスじゃなかったみたいで助かった。

 俺は穴に腕を突っ込み、鍵を下げた。少しだけガラスで腕を擦ってしまった。しかしその痛さに屈している場合ではない。俺は窓を開け、すかさず家の中へと侵入した。


「悠護! 勝手に一人で行くなや!」

「ごめん」


 追い付いたチュンも俺の後に続いた。「鍵ならわしが開けたのに」とぶつぶつ言うチュンの言葉に、俺はハッとする。確かに、今の行動は先走りしすぎだったかもしれない……。柴犬を救わなきゃという一心で、そこまで頭が回らなかった。

 いや、反省は後回しだ。

 俺達が侵入したのは、六畳一間の和室だった。おそらく廊下へと続いているであろう、正面の引き戸を開けると、いきなり灰色の煙が俺の上半身を飲み込んだ。


「ぐっ――!?」


 咳き込みそうになるのを必死で押さえ、地べたに這い蹲るようにし、手で鼻を押さえる。

 くそっ。こんなに火の回りが早いなんて、予想外だった。

 シャラン。

 突然耳を通り抜けたのは、澄んだ鈴の音色。

 竹笠を持ったチュンが、いきなり俺の周りを舞い始めたのだ。

 こんな状況で幻術を?

 俺の心情を読んだのか、チュンは舞いを続けながら、早口で答えた。


「これは幻術じゃねぇ。悠護、この煙はわしが何とかする。逆に、煙しか何とかできん。早う終わらすぞ」


 口を開けると咳き込みそうだったので、俺は黙ったまま頷いた。

 そうか、煙を――。助かるよ、チュン。

 鈴の音が消えた頃には、俺の周囲一メートルから煙が消えていた。視界良好とまでは言えないが、呼吸ができるという点において、先ほどよりは断然良い。

 パチパチと小さく爆ぜる音だったものが、いつの間にか轟々という、うねりに似た音に変わっている。これは『あの時』と同じ音だ――。

 俺は柴犬の記憶を思い出しながら、廊下を進んだ。

 常時なら、きっとこの廊下はとても短いものなのだろう。だが今の俺には、まるで三十メートルはあるのではないかと思うほど、長いものに感じた。

 煙はチュンが何とかしてくれたが、熱気は容赦なく全身を襲ってくる。サウナどころではない。正直、すぐにでも外に出たかった。それでも、ここまで来て引き返すわけにはいかない。

 やがて右前方に、濃い茶色のドアが見えた。

 カリカリカリカリ。

 ドアの向こう側から聞こえてくる、あの音。

 待ってろよ。お前の望みを叶えてやる。これで、終わりにしてやる――。

 小さく息を呑み、俺はそのドアを勢い良く開けた。

 ドアの下には、予想通り柴犬の姿があった。柴犬は漆黒の目で俺を見据え、固まる。しかし、それは一瞬だった

 まるで弾かれたように、柴犬は俺のカーゴパンツの裾をぐっと噛む。そして外へ誘導させようと、ぐいぐいと強く引っ張り続けた。

 ……ずっと、こうしたかったんだな。本当は自分の身を呈して、こうやって飼い主を助けたかったんだな。

 俺を必死で外へと誘導する柴犬の姿に、鼻の奥が熱くなるのを感じた、その時だった。


「悠護! 入り口が燃えとる!」


 チュンの大声に視線を跳ね上げると、大きな木製の靴箱が火に包まれていた。その火はみるみる内に大きさを増し、玄関を舐めるようにして燃え盛る。ただの民家の玄関が、今の俺には地獄への入口に見えてしまった。

 柴犬は、おそらく玄関から出るつもりだったのだろう。そこで動きが完全に止まってしまった。


「柴犬! 和室から出よう!」


 俺は柴犬に訴えるが、柴犬は目の前の炎に(おのの)いてしまったのか、固まったまま微動だにしない。自分の命を奪った炎の恐ろしさを、今さらながらに思い出したのかもしれない。

 柴犬を抱えて脱出するべきか!? でもそれだと、また俺の中に柴犬の記憶が入り込んでしまうかもしれない。こんなところで気絶してしまったら、間違いなく終わりだ。くそ、どうすればいいんだ!?


「何しとんなら!」


 既に耳に馴染んだ方言が聞こえた瞬間、俺達の周りを激しい光が包みこんだ。

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