温かな場所
「ママ……お早う。」
囁くようなあかりの声が聞こえた。
同時にマルがペロペロと亜希子の頬をなめてきたのではっきりと目が覚めた。
夫が出かけた後もう一度眠っていたようだ。
「あかり、具合いどう?」
「うん、大分良くなった。でも……まだ少しゼイゼイするよ。」
「そう。今日は病院行かなきゃね。幼稚園はお休みしようね。」
「うん。
あ〜あ、今日はのぞみちゃんと遊ぶ約束してたんだけどなぁ。」
「そうなの。
でも、もっと悪くなると困るしね。
今日は我慢しようね。」
あかりは仕方がないという顔をしていた。
「ねぇ、ママ。
病院行ってから、スーパーで何かお買い物する?」
「そうねぇ。
あかりちゃんの具合いが良さそうだったらスーパーに寄って帰ってもいいけど……。」
恐らく娘はスーパーのお菓子売り場に行きたいのだろう。
夕べ苦しい思いをした娘が不憫になり、娘の気持ちが明るくなるのならとスーパー行きを了承し、亜希子は着替え始めた。
簡単な朝食をすませた後掛かり付け医のいる病院に亜希子はあかりの手をひいて出かけた。
病院の待ち合い室は暖かかった。
思わず
「ここ、暖かいわね〜。」と声を出すと
「本当にね。
今日は冷えますものね。
暖かいとホッとしますよね。」
隣りに座った優しそうな初老の婦人が亜希子の言葉に応じた。
「あら、お嬢ちゃん、お風邪?」
「ううん、喘息。」
物おじしないあかりが答える。
「大変ね〜。小さいのに。早く治るといいわね。」
婦人はあかりににっこりと笑いかけてくれた。
「私の息子も昔喘息でね。でも、大きくなってからは良くなったんですよ。
だから、お母さんも今は大変だけどきっと治ると思って頑張ってね。」
優しい婦人の言葉に亜希子はぽうっと心が温まるのを感じた。
「ありがとうございます。」
急いで亜希子が婦人に頭を下げると
「今はその息子も遠い所にいてね。
主人が亡くなってからは私は一人なの。
こうなってみると家族が一緒にいた時が一番良かったわ。」
と婦人は言った。
亜希子は何と言っていいかわからず、戸惑っていると
「藤堂さ〜ん。」
と診察室から自分たちを呼ぶ声がした。
「はい。」
と席を立った時にはもう、隣りの席に婦人の姿はなかった。
「ママ、看護士さん呼んでるよ。」
あかりは自分から診察室の方に歩き出している。
「村田先生、今日もあかりを診てくれるかな?」
「そうね。きっと診て下さるわよ。大丈夫。」
あかりの言う通り診察室の中で女医の村田先生が待っておられた。
「あかりちゃん、今日はどうしたの?」
先生が尋ねる。
「また、喘息になっちゃった。」
あかりが答えるので亜希子に出る幕はない。
「じゃあ、胸の音を聞くからお洋服上げてね。」
あかりは、看護士さんに手伝ってもらって洋服を上げて、胸と背中から気管支の音を聞いてもらう。
「まだ少し音が聞こえているから、今日は吸入していってね。
お薬、いつものお薬を出しておきますね。」
あかりが吸入してもらいに別室に行くと村田先生は亜希子に向き直った。
「お母さん、夕べは眠ってないんじゃない?
顔色が少し悪いけれど大丈夫ですか?」
「朝になってから少し休みましたから大丈夫です。」
「お母さんもあまり頑張り過ぎないようにしてくださいね。
これからもあかりちゃん、苦しいようだったらすぐに連れてきてください。
なるべく早く処置すればひどくなりませんからね。」
「ありがとうございます。先生にそう言って頂けると安心します。」
思わず夕べからの緊張がとけて亜希子は涙がこぼれ落ちそうになった。
村田先生はそんな亜希子をじっと見て
「あかりちゃん、お大事に。」
と告げた。
治療をすませたあかりと病院を後にした時……
今朝、夫に対して感じたがっかりとした気持ちは亜希子から消えていた。
私にもわかってくれる人がいた……。
優しく接してくれた初老の婦人の顔と村田先生の顔が浮かぶ。
私は一人じゃない。
そう思った時に
「ママ、スーパーに行こうよ。」
とすっかり息遣いが楽になったあかりが元気に繋いでいた手を振った。
「うん、行こう。」
亜希子もぶんぶんとあかりと繋いだ手を振ってみた。
娘の弾ける笑顔がそこにはあった。