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彼女が死ぬまで

作者: 砂野 遠

 もう、死のう。

わたしの頭の中は、壊れたCDのように何度もその言葉だけが繰り返された。

課長が何か言っている。

でも頭に入って来ない。

こんなに晴れた日だと言うのに、課の中は湿っぽく、仄暗い。


 肩たたきに遭った。

それも、限りなく、クビを切られるに近く。

理由はよくわからない。

ただ、わたしが選んだ訳でもなく罹った病気のせいであろうことは、想像に容易かった。




 *




 二ヶ月前。

ある休日、わたしはなんとなく死にたくなって、首に刃物を当てた。

何度も何度も、滑らせた。

意識は消えない―――深くは切れなかった。

包丁が傷んでいたのか、わたしが意図に反して力を込められなかったからなのかは、わからない。

何本もの赤い線から血がたらり、と流れるのを感じた。

わたしはこの人を殺す。

鏡で傷を確認すると、そこに映った自分の顔が、指名手配者の写真のように澱んでいることに気づいた。

その内自分で自分が恐ろしくなって、よれたルームウェアのまま、12月の北海道の雪の降りしきる中、近所の交番まで走った。


 深夜の交番でわたしを出迎えたのは、男女一人ずつの警官だったが、事情聴取をしている内に、もう一人男性警官が増えていた。

警官はすぐに救急車を要請し、10分程すると水色の上下にヘルメットのようなものを被った二人の男性が所内にやってきて、わたしの首を大きなガーゼで包んだ。

そしてわたしは人生で初めて救急車に乗った。

担架に乗せられるや否や、腕を捲られて、太い針で注射を打たれた。

サイレンの音がけたたましく耳に響く。

救急隊員は「傷口もそんなに深くはないですから、安心してください」と、転んで膝を擦りむいて泣く子どもをなだめるかのように穏やかな声でそう言った。

それを機に、思考が真綿に包まれるかのように、だんだんと白い世界に落ちていった。


 目が覚めると、そこは白い壁に包まれた世界だった。

指先を伝う、少し冷たいシーツの感覚。

すぐにそこが病院だと悟った。

何時間か後に、そこが精神科の病院で、わたしは鬱病で、薬を飲んだり作業療法に出たりしながら回復を図る必要があると聞いた。

医療保護入院という、わたしの拒否権は通用しない制度らしい。

窓の外には、今にも落ちてきそうな程重厚な雲がかかっていた。


 会社には、休職を願い出た。

公衆電話の向こうからは、渋々という一言以外で表現できない声で、課長がそれを承諾してくれた。

仕事は心から好きと思えていたので、そこから引き剥がされることには抵抗があった。

しかし生真面目なわたしは、感じの良い医師や看護師らの言うことを忠実に守った。

調子が良ければ作業療法―――小物作りだったり運動だったり―――に参加し、調子が悪ければ担当のスタッフによく話を聞いてもらったり、薬を調整してもらったりした。

そして二ヶ月が経ったところで、退院の許可が出た。

退院時、担当スタッフが「真面目に治療に専念した甲斐があったわね。見違えるように良くなっているわ」と言ってくれた。

久しぶりに吸った外の空気は、からりと晴れた空から差す暖かい陽の味がした。




 *




 真面目に生きることで報われると信じて生きてきた。

それが、今、目の前で崩されたのだ。


 退院してすぐ、会社に連絡を入れた。

先生からは一週間は自宅で休養を取ってから復職しなさいと言われていたので、それに従って復職を願い出ようと思っていたのだ。

すると、「一度会社に来てくれ」と言われた。

まさか肩を叩かれるとは欠片も思ってもいず、軽い足取りで会社に向かった自分が憎たらしくなった。

デスクのわたしの荷物は、初めは持って帰ろうと思ったが、まとめている内に馬鹿らしくなって全部ごみ箱に突っ込んだ。


 もう、死のう。

わたしが何をしたと言うのだ。

会社には真面目に尽くしてきたし、病気だって真面目に治療して、良くなったと言われたのに。

努力には意味がないのか。

病に冒された時点で、わたしには一切の価値もなくなってしまうというのか。

しかし、怒りは沸かなかった。

身体から心臓を取られたくらい虚しく、ああ、わたしはやはり死に値するのだと思った。

課の中の人に、お世話になりましたと頭を下げ、彼らの表情は見ないように踵を返してそそくさと玄関に向かう。

誰もわたしを引き止めようとも、声を掛けようとさえもしなかった。


 何をしようか、考えるまでもなく、自然と足がそこに向いていた。

ここから地下鉄の駅までは二十分は掛かる。

ここまで学生でぎゅうぎゅう詰めのバスで通勤していたな、と思うと、またひとつ臓器を取られるような感覚がした。

足取りは重くも軽くもなく、引き寄せられるように、自然と動いていく。

4月の空は水々しいほど青く、まさに晴天の霹靂だな、と思う。


 わたしが死んだら、誰か悲しむだろうか。

仕事をクビになった如きで死ぬ愚か者と、影で嘲笑われるのだろうか。

特別親しい友人も恋人もいないし、家族も、両親が離婚してわたしが家を出てからはすっかり疎遠になってしまった。

そうだ、わたしの人生はそもそも虚しかったのではないか。

何も努力が報われないなんて、今に始まったことではないのかもしれない。

風が、さらさらとわたしの胸をすっぽり覆うほど伸びた髪を撫でる。

地下鉄に轢かれて、この髪をも木っ端微塵に失ってしまうことには、少し後ろ髪を引かれた。

この髪は、多くの人から褒められた。

黒色に、すとんと落ちるストレート。

人工的に手を加えたことのない髪を、特に前の彼氏はよく撫でて、「君にとても似合う」と言ってくれた。

今、彼は何をしているのだろう。

せめて、今彼の隣に居るのが、茶髪にくるくるのウェーブを掛けた女でなければいいな、と願った。


 ああ、わたしは、どこまでも真面目だったのだ。

髪を痛めつけることさえできないくらい、本当に真面目だったのだろう。

「真面目に生きていれば、必ず良いことがある」と、どこかで聞いたことがあった。

それは、父と離婚してわたしたちを置いてどこかへ行ってしまった母親かもしれないし、自己啓発本でも読んだのかもしれないが、記憶に定かではない。

赤信号が目に入るが、無視して横断歩道を駆け抜ける。

車が急ブレーキをかけて停車するのと同時に、激しいクラクションが鳴らされる。

それをも無視して、ただひたすら走った。


 地下鉄へと通じる階段が見えてくる。

もう少し、もう少し、わたしを終わらせることができる。

走りを緩めないまま、階段を一気に下り、改札口にICカードをかざしてそれをくぐり抜ける。

ホームと改札口を通じる階段からは人の波がやって来る―――地下鉄はどうやら行ったばかりらしい。

すると一気に全身の力が抜けて、階段を一段も下る前に、その場にへたりこんでしまった。

やがてわたしの脇を通り過ぎる人がいなくなるまで、わたしはそのまま、冷たいタイルの感触を肌に感じていた。

やはり、誰もわたしに声を掛ける人はいなかった。


 はあ、と大きく溜め息を吐いて、鉛のように重くなった身体を立ち上がらせる。

スカートに付いた汚れを、こんな時でさえ払う自分に、更に嫌気が差した。

ゆっくりと階段を下りる。

わたしの後ろから、急いで人が降りていく。

何をそんなに急ぐのか―――彼には目的があるに違いない。


 目的がある人。

しかし、彼の目的はきっと生きることで、わたしのそれは死ぬことに限られている。

死んだら、もう目的を持つことはなくなるのだろうか。

地獄と天国が本当にあるのなら、わたしはどちらへ行くのだろう。

そんなことを考えながら、ホームの奥へ、奥へと進んでいく。

次第に、ホームに人も増えてきた。

彼らが、粉々に砕け散ったわたしを見たら何と思うのだろう。


 「間もなく一番ホームに電車が到着します……」

上品な女性の声が、静かなホームに響き渡る。

ずっと向こうの暗闇から、ぼうっとオレンジ色の光が、だんだんとこちらへ近づいてくる。


 わたしは、お気に入りのパンプスに包まれたその足を、一歩、一歩、前へと踏み出した。




Fin.

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― 新着の感想 ―
[良い点] 読みやすかったです [気になる点] 起承だけで終わってしまったような
2013/05/09 04:27 退会済み
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