Epsode.3
それからはまるで夢のような時間だった。
シャトルボートに乗り込み、陸地に散りばめられた見事な夜景を眺めながら、静かな夜の河を渡る。到着したのは巨大なナイトマーケット。僕が襲われたあの古めかしい昔ながらのバザールとは大違いの、倉庫跡地を開発したという近代的な巨大商業施設。旧王朝時代の再現をテーマに、四つの地区に分かれて構成された、雑貨・カフェ・パブ・シアターなどの充実ショップが満載のナイトマーケットだ。そこでさんざん遊び、疲れた僕と彼女は、河を一望できるエリアのベンチに座って一息つく。
「ふう……楽しかった。やっぱりひとりで来るよりふたりのほうがずっといいわ」
ベンチの背に勢いよくもたれかかって、大きなため息をつく君は相変わらず子供っぽい。そんな君を嬉しそうに見ている僕のほうが大人になったような気がして、苦笑する。
「よくここに来るんだ」
「そうね。最近出来たばかりの人気スポットだから。それにたくさんの人ごみにまぎれていると、ああ、自分はひとりじゃないんだなあって思えるの」
僕の肩に彼女の小さな頭がすとんと落ちた。熱気と河の水分を含んだ風になびく黒髪が、まるで柔らかな天使の羽根のようにふわりと僕の頬を撫でる。
わかってるよ。
僕は君の暇つぶしだってことぐらい、そんなことはわかってる。仕事で忙しい旦那。慣れない異国での生活。満たされない心。はちきれんばかりの淋しさと孤独。話題の人気スポットにもたった独りで来るなんて。笑顔に隠された彼女の素顔はきっと、もろもろの負の感情に押し潰されそうな少女の泣き顔そのものなのだろう。
だけど……お願いだから僕で遊ばないで。これ以上誘わないで。でないと僕はこみ上げてくる衝動が抑えられなくなりそうだよ。
「お礼してもらってもいい?」
「え?」
「助けてあげたお礼」
耳元に唇を寄せそっと囁く。熱い息が注ぎ込まれるリアルな感覚に全身に痺れが走る。
「家がすぐ近くなの」
僕はごくりと唾を飲んだ。心拍数が一気にはねあがる。
誘われている。君は僕を確実に誘っている。
「お願い」
感触を覚えたばかりの、汗でしっとりとしたあの細い指が再度僕の指を求めてくる。鼓動が激しく連打し、頭の中でガンガンうるさく鳴り響く。君の圧倒的な魅力に、汗をはらんだ甘い体臭に、耐性皆無のたった十七の僕がどうして抗えるだろう?
そうだよ、もう抑えられない。さっきからこみ上げてくるこの不埒な衝動を。
僕は顔を逸らしたままゆっくりと頷いた。
その瞬間、君の指がまるで逃すまいというように、また僕の指に固く絡みついた。
日本人専用の高層マンション。君の話によると、何社かの日本企業の出張社員が共同で利用しているという。
「私にとっては贅沢すぎる鳥籠だわ」
ライトを落とした、だだっ広くて生活感がまるでない室内。家事はすべて旦那の会社が雇った現地のメイドがしてくれるという。この整然とした広い空間に、不在がちの旦那を待ちわびて独り過ごす君の姿を、今はまざまざと想像できる。
「こちらにどうぞ」
シャワーを浴びてタオルを腰に巻いた僕は恐る恐る君が待つ寝室のドアを開ける。先にシャワーを済ませ、バスローブを着てバルコニーに立つ君の、肩に乱れた濡れ髪の香りが室内にむせかえる。
「綺麗よね?」
君の隣に並んで開け放したバルコニーから見下ろす夜の街は雑多で醜悪で、それでも毒々しいネオンと眩い輝きが混在していて僕が未だかつて見たこともないほどの美しさだった。
「ここに来たばかりの時はこうやって毎晩二人で夜景を楽しんだのよ。綺麗だねって肩を抱いてくれて。嬉しかった。こんな素敵な時間がずっとずっと永遠に続くものだと思っていたのにね、その時は」
甘い香りの濃度が強くなる。彼女はそっと僕の胸に顔を埋めた。
「きっとあなたのご両親もそう思っていたはずよ。二人一緒の素敵な時間はずっと永遠に続くものだと……でもね、少しはわかってあげて。現実はそううまくいかないってことも」
「……大人って勝手だ」
「そうだね……ほんとそうだよね。ほんとに勝手すぎるよね……」
か細くなる君の声。僕は震える両手で君の頬を挟んで僕の胸からそっと引き離す。黒いふたつの瞳は涙を湛え今にもこぼれそうに揺れている。
「お互い同じ景色を見ていると思っていたのに、あの人は実は違った景色を見ていたっていうことがわかって……」
「だから淋しいの? だから……」
こうやって独りの夜はいつも誰かを誘っているの?
という僕の言葉は彼女の唇で塞がれ紡ぐことができなかった。強く首に巻きつく君の細い両腕。激しく挑むように僕を求める君の熱い舌。
きっと僕だけじゃないんだ。
ただ待ち続けるだけのひとりきりの夜。
孤独に耐えきれなくて街を彷徨ってこうやって孤独の片割れを見つけてきて。
君は虚しく淋しさを紛らわす。
「初めて?」
無言で頷く僕の火照る身体をもうどうすることもできない。弄ばれていてもかまわない。たとえ一時でも君と僕の淋しさが紛れるならそれでもいいよ。
君の手が明らかに欲望を露わにして僕の腰のタオルを静かに取り去った。さぐる手が滾る僕を優しく包み込んだ時、僕は哀しくやるせない未知の領域に一歩足を踏み入れた。
君に僕の名前を教えていない。
僕も君の名前を訊いていない。
そんなことはほんの些細なことだと知った。
重ねる肌の熱さの分だけ、喘ぐ吐息の数だけ、僕たちの淋しさが溶けて消えてゆく。未だかつてないほどの快感の波に翻弄されながら僕の上にいる君を見上げると、その滑らかな二つの黒い瞳から涙がはらはらとこぼれ落ちた。
「将人! 将人!」
肩を強く揺すられ、僕ははっと顔を上げた。正面には見なれた両親の顔。
「良かった……まさかこんなところでフラフラしていたなんて……一体どこに行ってたのよ!」
「ここは……」
「ここはって……さっきまで一緒にいたバザールじゃない。気がついたらあなたいなくなっていたから慌てたわよ。お父さんとあちこち探しまわって、現地の人に訊いても言葉が通じないしどうしようかと思って……もう少し探していなかったら警察に行こうと思っていたところだったのよ」
脳内にうっすらと膜が張ったようにぼんやりしている。首を回して辺りを見回すと、そこは例の路地裏。ヒステリックにわめく母親の顔がまるで他人のように見える。
全部夢だった?
あの時ここで男に襲われて気を失って、君に助けられて……あの部屋は?
朦朧として、思考がてんでまとまらない。
「まあ、いいじゃないか。無事見つかったことだし。お、おまえ、ここどうしたんだ?」
父親の太い指が僕の頬を撫でる。
「切り傷か? でもたいしたことはなさそうだな」
──夢じゃない。
君は確かにいた。僕とあの部屋にいたんだ。
「よくないわ! そうやってあなたはいつもいつも重要なことをうやむやにするから! 将人、とりあえずすぐ病院にいきましょう」
「またそんな……今すぐじゃなくてもいいじゃないか。様子をみて明日にしたら……」
「何を言ってるの?」
またも争い始めたふたりを目の前にしてぼんやりと君の言葉を思いだす。
──お互い同じ景色を見ていると思っていたのに、あの人は実は違った景色を見ていたっていうことがわかって──
ああ、このふたりもかつては君と君の旦那のように同じ景色を見て感動した時があったに違いない。だけど、時を経るにつれ互いの見える景色がまったく違ってきてしまったのだろう。夫婦だからって家族だからって必ずしも同じ景色を見ているわけでは決してないんだ。
哀しいけれど今の僕に、別れる二人をどうする事も出来ない。出来るのは二人の離婚という現実をしっかりと受け止めるだけ。そして自分だけが見ることのできる新しい景色を探し続けることだけだ。
あの胸がむかつくような悪臭に僕はふっと我にかえった。猥雑なバザールの臭い。生きている人間の臭い。
諍う両親をそのままに僕は踵を返して歩きだす。
君は今でも独り彷徨っているのだろうか。出口の見えない混沌とした孤独と寂寥の中を。
僕は君にとって一時の相手。それを狡いと責めることはできない、したくない。僕と同じ孤独と淋しさを共有したあの濃密なぬくもりが、今更ながらやるせなく愛おしい。
熱帯の国が見せた一夜の幻想。
僕はきっと忘れない。
そして折に触れ思い出すだろう。
孤独に耐えきれなくなった瞬間、淋しさに打ちひしがれたその時に。
夢とも現ともつかないまやかしの幻の君を。僕にとってかけがえのないアジアの夜を。
完結です。
短篇にするつもりが、やたら長くなってしまいました。
お読みくださり、ありがとうございました。