Epsode.2
「こっちよ」
決して離すまいというように、君は僕の手を引いて素早く歩いてゆく。背筋を伸ばし、大きな歩幅で前をしっかりと見据えてなんの迷いもなく。革のサンダルから覗いた深紅のペディキュア。それがやけに艶めかしい。
連れて行かれたのは洒落たオープンカフェ。深夜近くだというのにほぼ満席状態。現地人、しかも若いカップルばかりで少し面食らう。観光客が皆無のせいか、あの独特の喧騒や雑然とした雰囲気はこれっぽっちも感じられない。
「食事は? 傷の手当てもしたいし、落ち着くまでここで少し休みましょう」
君は見ず知らずの僕に何の警戒心も抱いていないようだった。そりゃそうだろう。思いがけない災難に遭った哀れな子供、この国に不案内な観光客。警戒というよりも憐れみを抱いているに違いない。完全に子供扱いされていることが不満といえば不満だった。
「危ないところを助けてくれてありがとうございました。でももう大丈夫です。それにこれ以上迷惑かけられないし……」
「くすっ。何言ってるの。余計な気遣いしなくていいのよ。危険に遭遇している可愛い少年を助けるのは大人の役目。当然のことをしたまでだわ。迷惑だなんてそんなことこれっぽっちも思ってないのよ。だから安心して。落ちついたらご両親に連絡するわ」
振り向きざまの、まるで咎めるような彼女の鋭い視線。長い睫毛に縁取られた漆黒の瞳はまっすぐに僕を見つめている。その強い輝きに僕の少しばかりの不満はあっという間になし崩しだ。
「だから心配しないで?」
ふいに握っていたペリエが僕の手からするりと落ち、地面に叩きつけられ、あっけなく砕け散った。固まったまま茫然と立ちすくむ。なぜなら君の細くしなやかな指がふいに僕の掌に絡んできたからだ。驚き内心焦る僕。柔らかくしっとりとした指は優しく執拗に僕の指を弄ぶ。全身を伝う甘い痺れのせいで思わずごくりと喉が鳴った。
「さあ、今オーダーするから席につきましょう」
指がするりと離れ、今度は僕の腕を掴んで 悪戯な笑みを浮かべる君はまるで小悪魔だ。僕が落として割ったペリエの片づけをウェイターに頼むと君は僕を再び抱きかかえるようにして空いている席に腰かけた。
「具合はどう?」
君の手が僕の額にそっと触れる。さっきと同じ、柔らかくて温かい小さな掌、指の感触。
「大丈夫……心配かけてすみません」
声が掠れ、急に照れくさくなって思わず顔を逸らす。君はくすっと笑って、おもむろにハンカチを取り出したかと思うと僕の頬を優しく拭い始めた。
「そんなに深く切れているわけではないのね。血も止まっているし」
どうリアクションをしていいのかわからない、されるがままの僕。熱を帯びて瞬時に赤くなった頬を悟られはしないだろうか。
そんな僕の気も知らず、君はもう大丈夫とばかりににっこりと微笑み、すかさずウェイターを呼びとめ現地語で注文を入れる。その動作ひとつひとつが無駄なくきびきびとして美しい。
うっすらと焼けた肌。映える白いレースのキャミソール。ゆるくウェーブのかかった褐色の髪。汗がにじむ、大きく開いたその胸元が僕にとっては強烈に眩しくて刺激が強すぎた。
「主人の海外出張のお供なの」
俯く少し淋しそうな横顔。薄いピンクのアイシャドウ、グロスで艶めく唇。僕より少し年上、せいぜい大学生くらいかと思っていたから正直驚いた。化粧をしていても隠せないあどけなさ。「人妻」という僕の既成概念からあまりにもかけ離れた目の前の君。自分にとって遥か遠いものだと思っていた存在が、まさかこんなに近くに感じられるなんて。
見知らぬ僕を暴漢から救い出してくれたあの勇気と大胆さ、相反する人懐こさ、無邪気さ──そんな君の魅力は僕の警戒心をあっさりと取り払ってゆく。
「え? 人妻って意外? ふふ……よく言われるの。あの人からも。もっと年相応の化粧をしろとか、しっかりしろとか。他の海外出張組の奥さま方みたいに上品に優雅に落ち着けって」
ため息とともに、熱い吐息が降りかかる。あまりアルコールは強くないらしく、半分も残っているグラスには水滴がびっしりと張り付いている。スパイシーな料理が並ぶテーブルに片肘をついて小さな掌に乗せた君の頬はほんのりと上気していて、僕から見てもその様子は何だか子供っぽくて、それでいながら気だるそうで、危うくてとても放ってはおけない。
「あのひと毎日忙しいの。一週間のうちに一日か二日帰ってきたらいいほう。あたしも、今でこそこの国に慣れたけど、最初は友達もいなくて淋しかったな……」
「ここに来て何年?」
「ちょうど三年……そろそろ日本に戻れると思うのだけど……」
顔を上げ、じっと僕を見つめる。長いしなやかな髪が熱風でさらりと揺れた。
「帰りたい? 日本に?」
「あたりまえよ。もうこの暑さとか辛い料理とかいい加減うんざり。もともとガラじゃないのよ、海外で生活するなんて。他の奥さま方とは年も離れてるし、お付き合いも堅苦しくて疲れちゃう」
濡れたように艶めくぽってりとした唇をおどけたようにすぼませる。
「ほんとうに、帰りたいなあ、日本に」
ひとことひとこと、噛みしめるようにつぶやく君は、僕から視線をふっと外し、どこか遠く、僕ではない何かをぼんやりと見ている。
「たいてい夜は独りだから退屈しのぎに外をフラフラするの。今日は気が向いてちょっとバザールまで遠出したら……そしたら可愛い日本の男の子が大変危険な目に遭っているじゃない? だからついつい……」
「びっくりした。あんな勇ましい女の人見たのって生まれて初めてかも」
照れ隠しなのか、彼女は舌をぺロリと出すと僕の額を指で弾く。
「こら、オトナをからかうんじゃない」と無邪気に笑いながら。
ああ……微熱がまた僕を包み込む。
「あなたは? いったいどうしてひとりであんなところにいたの?」
くるくると変わる表情。さっきまでのあの無邪気な笑顔は瞬時に消え失せ、たちまち分別のある、厳しい大人の顔つきになる。
「旅行で……両親とここに来たんだけど途中ではぐれて……」
「そっか、迷子になったのね?」
「親、昔から仲悪くて、この旅行も離婚前の最後の家族旅行とか言って。あのバザール歩いてたら、つまらないことで急に喧嘩しだして……」
残っていたアルコールを呷っていた彼女がふいに飲むのをやめてグラスをテーブルに置いた。眉をひそめ心配そうな瞳が僕にまっすぐ据えられる。
「またかよって、僕やってらんなくて。外国に来てまでやるのかよって、いいかげん嫌になって……それで……」
「わざとご両親から離れたのね」
「そう……」
「そうしたら、あそこで迷子になってあの男に襲われちゃったと」
僕は黙って頷いた。
物心ついてからずっと仲の悪い両親の姿しか見てこなかった。何が最後の家族旅行だ。ふたりが長年繰り広げてきた茶番劇に付き合うのはもう限界。まさかこんなところにまで来て醜態を晒すとはね。うんざりだった。
「ごめん……こんな話して。普段は絶対にこんなこと言わないんだけど……でも別に同情してもらいたいわけじゃないから」
「わかってる」
小さくつぶやいた彼女は相変わらず頬杖をつき視線を落としたまま、空になったグラスをうつろに見つめている。
「ぜんぜん知らない場所で出逢った、ぜんぜん知らない誰かだからこそ本音が言えるのよ。私もそう。あの人には絶対に日本に帰りたいなんて言わない。言えないもの。黙って聞いてくれるあなただから言えるの」
微笑む君の横顔にまた暗い翳が揺らぐ。
「行きましょうか」
「え?」
「夜の観光ツアー」
上目遣いの黒い瞳が不敵に光る。
「なんかこう、ぱあっと遊びましょうよ。ふたりで。せっかくこうやって逢えたんだから」
まるでクラスの女子みたいになんの屈託も迷いもなく僕を誘う。違和感はまるでなかった。逢って一時間足らずしか経たないのに、既にふたりの間で温かい感情を共有していたから。
それはきっと淋しさという名の親近感。
「じゃあ、案内してよ。僕海外旅行初心者だし」
「……初めて笑ったね。想像していた通り、笑うとすごくイケメンさん。将来たくさん女子を泣かせそう」
「いい大人が子供をからかわないでよ」
再度くすっと僕は笑った。君は頬杖をやめてそっと僕の手を握る。されるがままの僕は恐る恐る彼女の顔を見つめた。
──誘惑されてる?
そう思ったのもつかの間、彼女はテーブルに食事の代金を置くと即座に立ちあがり一刻の猶予もならない、とばかりに僕の手を強引に引っ張って店から躍り出た。