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アジアの夜  作者:
1/3

Epsode.1

某ジャニ系アイドルの持ち歌からヒントを得ました。

ものすごく単純&簡単な短篇にしようかと思っていたら、意外にも難産でした。

アジアの雰囲気・うだるような暑さが表現できているかどうかかなり不安です。

 人いきれでむっとする夜更けのバザール。どこからともなく漂う腐敗臭と香の甘い香り。路上には無数の屋台が並び、食欲をそそる匂いがたちのぼる。せわしなく行き交う異国の人々の波にもまれ、彼等から発散されるきつい体臭が鼻につく。ありとあらゆる雑多な異臭が混ざり合い、さらに濃度を増して独特の臭気を放ちながらねっとりと身体に絡みつく。


 僕はこみあげる吐き気を必死にこらえながら首を回し、ぐるりと周囲を見まわす。屋台で繰りひろげられる商売人と観光客との白熱した値引き合戦、うつろな表情をさらしたまま路上に座りこんで煙草をくゆらす老人、路地裏で客を引く黒い瞳と褐色の肌がエキゾチックな街の女たち。僕が知っている日常とは完全に切り離された、見なれぬ情景をぼんやりと瞳に映してあてもなくただひたすら彷徨い歩く。

 

 深夜近くというのに徘徊するストリートチルドレン。けたたましい哄笑と気違いじみた喧騒に塗れ、汚濁と猥雑さで混沌とした路地裏にたむろする怪しげな現地人。

バザールの異様な熱気に浮かされ火照る身体。内臓が蒸され燻され、全身の毛穴という毛穴から汗が噴き出る。鬱陶しいことこのうえない。街の臭気がさらに濃度を増し、息を吸うたびに肺が汚染されてゆくように感じて絶え間なくこみあげるこの嘔吐感を抑えられない。

 いっそ吐いちまえば楽になるのか。溢れそうな生唾を飲み込み、口許を押さえてふらふらとメインストリートを外れる。吐いて楽になりたくて、僕の足は自然と人目のつかない路地裏へと吸い寄せられていった。


 路地裏はメインストリートとは違って余所者を排除し暴力や売春が密かに横行する、一歩間違えば命のやりとりをしかねない物騒な空間。うかつだと思った時にはもう遅かった。肥えたひとりの男が巨体を揺らして前方から歩いてくる。僕は口内に溜まっていた生唾をごくりと飲みくだす。同時に肉に埋もれた男の眼球が、僕を一瞥して鈍く光ったのを見逃さなかった。狙われた。そう直感して咄嗟に逃げようとした瞬間、男は僕に襲いかかってきた。

 

 物取りか。殴られるのか。そう思って一瞬身構えたのは甚だしい見当違いだった。

 ここでは男も女も関係ない。欲情したら見境なく獲物を喰らう。僕は奴のそっち方面のターゲットとなったわけだ。身体が本調子だったらなんとか抵抗できたものを。成す術もなくあっけなく地面に転がり、所詮は大人と子供、男の圧倒的な力の前に僕は不様に組み伏せられた。全身から血の気が引き、捧げられた子羊のように無抵抗の僕。今にも涎を垂らさんばかりに迫る男の顔。

 畜生! 

 僕は声を限りに叫んだ。まるで野獣の咆哮のごとく。

「その子から離れて!」

 漂う悪臭と熱気をすぱりと断ち切るように響く凛とした声。思いがけない日本語に驚いた僕は咄嗟に声の主を見た。

「このけだもの!」

 救い主は抱えていた大きな紙袋から瓶を一本取り出すと、それを思いっきり男の脳天に叩きつけた。瓶が勢いよく砕け、飛沫が辺りに散り、鈍く嫌な音が耳に残る。不意を衝かれた男はどさりと横倒しになったまま意識を失ったようだ。

「さあ、立って。逃げるわよ」

 僕は強引に手を引かれて起き上がり、半抱きされたままその場を走り去った。

 

 身体が小刻みに震える。恐怖のせいなのか、それとも体調不良のせいなのか自分でもわからない。ただ、僕の肩をしっかりと抱きかかえてくれている見知らぬ君のぬくもり、身体の柔らかさ、吐息の甘さがさらに僕の熱を上げた。

 メインストリートに出ると君はすかさず三輪タクシーを拾う。不格好な今にも故障しそうな車体に、いかにも胡散臭そうな運転手。けれど君は気にする風でもなく、鮮やかな現地語を駆使して強気で運賃を交渉し始め、素早く成立させると僕を抱えてすぐさま乗り込んだ。


「もう大丈夫。怖かったでしょ? 安心して。仲間はいないようだし、あの男もあの様子じゃ追い掛けてこないと思うわ」

 心配そうな黒い瞳が僕を覗きこむ。

「年はいくつ?」

「十七」

「観光客? ご家族とはぐれたの?」

 君の問いに黙って頷く。

「夜のバザールはただでさえ危険なのに、ひとりであんな裏通りをフラフラしていたらいけないわ。特にあなたみたいな綺麗な子は」

片手に抱えていた紙袋の中からペリエを取り出しキャップを開けるとそっと僕に差し出した。

「気分が悪そうね。真っ青よ。よかったらどうぞ。少し飲めば落ち着くわ」

 そう言って彼女は空になった紙袋を威勢よく丸めてくしゃくしゃにし、そのまま外へと投げ捨てた。

 震えが止まらなかった。

 男に襲われた恐怖だったかもしれないし、綺麗な大人の女性の隣に座っているという緊張と高揚のせいなのかもしれない。僕は恐る恐るペリエを受け取る。握った瞬間のひやりとした感触は心地良く、ごくごくと飲み干すと昂っていた神経が鎮まってゆく気がした。

 

「とばっちりうけちゃったわね」

 え? と僕はきっと怪訝そうな顔をしたに違いない。

「さっき。私があの男を瓶で殴った時。飛沫がかかって服が少し濡れているし、破片でここを切ってしまったのね……」

 左手が静かに伸びてきて細い指がそっと僕の頬に触れる。薬指にきっちりとはめられたシルバーリングがちかりと僕の目を射た。

 すると君は何か思い立ったように、ふいに運転手に向かって叫んだ。三輪タクシーは急ブレーキで停止し、運転手に乱暴に小銭を握らせると、君は僕の腕を乱暴に掴んだまま素早く下車した。


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