ヴァレンティナとの別れ
ヴァレンティナ様が、公爵家を去る日が来た。門の前には、公爵、父さん、少年、そして――私。全員で、ヴァレンティナ様を見送っていた。
馬車の準備が整い、御者が一礼する。その前で、ヴァレンティナ様は私の前に立ち、少しだけ身を屈めた。
「アリア。覚えたことを、忘れないようにするのよ」
そう言って、ほんの少し――けれど、確かに寂しさを含んだ微笑みを浮かべた。
「はい」
私は、はっきりと答えた。胸の奥が、きゅっと痛む。
「あの……」
私は、小さな声で呼び止め、 隠し持っていた袋を差し出した。
「これ……馬車の中で、見てください」
袋の中身が何かを、私は、説明しなかった。
「今まで……ありがとうございました」
精一杯の言葉だった。
ヴァレンティナ様は、一瞬だけ目を瞬かせ、 そして、柔らかく微笑んだ。
「こちらこそ。ありがとう、アリア」
その一言を残して、ヴァレンティナ様は、馬車へと乗り込んだ。扉が閉まり、 馬車が、ゆっくりと動き出す。私たちは、誰一人、言葉を発さず、 ただ、その後ろ姿を見送った。
馬車が角を曲がり、 完全に見えなくなるまで。
馬車が動き出し、公爵家の門が、ゆっくりと遠ざかっていく。ヴァレンティナは、膝の上に置いた小さな袋を見下ろした。
――馬車の中で、見てください。そう言った時の、少し緊張したアリアの顔が、脳裏に浮かぶ。
「……まったく」
小さく息を吐いてから、ヴァレンティナは袋の口を開いた。中に入っていたのは、一枚の、折り畳まれたカード。そっと開くとそこには、丁寧に押し花が添えられ、その横には短い文章が書かれていた。
『短い間でしたが、ありがとうございました。お身体、大切にして下さい。アリアより』
まだ、拙い筆跡。文字の大きさも、少し不揃いで、線も、どこか震えている。
――書き始めたばかりなのだから、当然だ。
それでも。
(……本当によく、頑張ったわね)
ヴァレンティナは、カードを胸に当てるようにして、静かに息を吐いた。
そして、そっと目を閉じる。そうしなければ、このまま、涙が溢れてしまいそうだった。
馬車は、何事もなかったかのように、規則正しく揺れながら、進んでいく。
だが、ヴァレンティナの胸の内には、確かに、ひとつの宝物が増えていた。
ヴァレンティナ様の馬車が見えなくなっても、私はしばらく、その場から動けなかった。
それからの日々は、驚くほど静かだった。朝は決まった時間に起き、身支度を整え、
挨拶をする。ドアを開ける前に、深呼吸。
歩くときは、視線を落としすぎず、上げすぎず。椅子に座る前に、ドレスの裾を整える。誰も「やりなさい」とは言わない。
けれど、身体が勝手に動く。
――ああ。ちゃんと、身についてる。
自分でも、少し驚いた。
父さんは、そんな私を見て、何も言わずに、少しだけ目を細める。
公爵は、
「無理はするな」
と、それだけ言った。
少年は、
「なんか、アリア……遠くなった?」
と、首を傾げた。
私は、笑って首を振る。
「遠くないよ。ちゃんと、ここにいる」
本当だ。私は、ここにいる。
夜。ベッドに横になり、天井を見つめる。
……猫になろうと思えば、なれる。
でも、最近は、しなくなった。嫌いになったわけじゃない。忘れたわけでもない。
ただ――今は、人間でいたい。
私は、少年をいつか助けられる人間になりたいから。猫の目で見える世界も、人の足で歩く床の冷たさも、どちらも、私のものだ。
それは、選べる。
数日後。家庭教師のエリオット先生が、新しい書類を持ってやってきた。
「アリア。今日は、少し先の話をしよう」
机の上に置かれたのは、厚みのある、資料の束。私は、なんとなく分かっていた。
「……学園、ですか?」
エリオット先生は、目を見開き、そして、微笑んだ。
「よく分かったね。公爵に聞いたんだ。アリアは、人間として、学園に入りたいということを」
胸が、少し高鳴る。
学園。貴族社会の縮図。優雅で、残酷で、学びの場。
怖くないと言えば、嘘になる。でも。
私は、顔を上げた。
「……お願いします」
エリオット先生は、ゆっくりと頷いた。
「そう言うと思っていたよ」
夜、机の引き出しを開ける。中には、幾つもの紙の切れ端。昔、こっそり練習した文字。
失敗だらけの線。私は、それを指でなぞり、
小さく息を吐いた。
――まだ、足りない。でも、進んでる。
ヴァレンティナ様。
私は、忘れていません。教わったことも、叱られたことも、あの、少し寂しそうな笑顔も。
人生は、望みが必ず叶う世界じゃない。
でも。それでも、私は――歩いていく。
そして、いつか。胸を張って、
「遊びに来ました」
と、言えるように。
物語は、ここで一度、幕を下ろす。
次に扉が開くとき――そこは、学園。
新しい世界が、私を待っている。
ここで一度終わりにさせて頂きます。
学園生活を作ろうと思ったのですが、少し休みます。




