ヴァレンティナ様は帰った
馬車が走り出してから、しばらく、誰も口を開かなかった。蹄の音と、車輪の軋む音だけが、規則正しく耳に届く。
ヴァレンティナ様は、ゆっくりと、深く息を吐いた。
「……これから話すことは、アリアには」
一瞬、言葉を探すように間を置いてから、 「まだ、少し早いかもしれないわ」
そう言って、私を見た。逃げ場のない、けれど誠実な視線。
「でも、聞いて欲しいの」
私は、黙って頷いた。ヴァレンティナ様は、窓の外に目を向けたまま、ぽつりと話し始めた。
「私はね……子どもがいないの」
その声は、淡々としていた。けれど、どこか、削れたような静けさがあった。
「望まなかったわけではないわ。色々、あったの。結果として……授からなかった」
少しだけ、指先が強く組まれる。
「だから、その分」
ヴァレンティナ様は、続けた。
「私は、商売に力を注いだのよ。時間も。情熱も。自分にあるものを、すべて」
馬車の中で、その言葉は、重く、しかし確かに響いた。
「商売は……成功したわ」
ヴァレンティナ様は、苦笑する。
「皮肉なほどにね。けれど、成功すればするほど、敵も、増える」
今日の出来事を、私は思い出していた。
「女が前に出ることを、快く思わない者。奪えそうなものを、奪おうとする者。失敗を、待っている者」
……人の行いは、何処でも同じだ。
「……人生はね、アリア」
ヴァレンティナ様は、こちらを向いた。
「望みが、必ず叶う世界では、ないのよ」
……知ってます。前世で、嫌というほど、学びました。
ヴァレンティナ様の瞳は、強くて、賢くて、それでも、どこか寂しそうだった。私は、そっと手を伸ばした。ヴァレンティナ様の手は、驚くほど冷たくて、けれど、確かに生きている温度があった。
「それでも」
私は、その手を包み込むようにして、言った。
「ヴァレンティナ様に、こうして教えて頂けたこと。それは、私の宝です」
「厳しくて、怖くて、でも……そこには理想の姿があって。私は、忘れません」
ヴァレンティナ様は、少しだけ目を見開いて、それから、ゆっくりと微笑んだ。
「……あなたは、本当に、不思議な子ね」
馬車は、静かに走り続ける。
――人生は、いつだって、これからだ。
そのことを、どうか、ヴァレンティナ様にも、知っていて欲しい。
私は、そう願いながら、握った手を、離さなかった。
ヴァレンティナ様は、私の手を、静かに見ていた。
ヴァレンティナが帰る、その前日の夜。
公爵の私室では、公爵、弟、そしてヴァレンティナの三人が、再び盃を交わしていた。
「姉さん、教育係を引き受けてくれてありがとう」
弟は、素直に、嬉しそうな顔で言った。
「アリアは、見違えるほど淑女になった」
「そうだな」
公爵も頷く。
「もう、貴族の子だと言われても、誰も疑わないだろう」
その言葉を聞いた瞬間、ヴァレンティナは、盃を口元で止めた。
そして、ふっと、ため息をつく。
「……どうしてかしらね」
頬を、ほんのりと赤く染めて、
「貴方に子どもができて、私には、いないのは」
「少し、酔い過ぎだよ。姉さん」
弟は、苦笑しながら言った。
「酔いたくも、なるわよ」
ヴァレンティナは、即座に返した。
「だって、あんなに可愛くて、賢くて、それでいて、度胸もあるのよ?……不公平だわ」
空気が、少しだけ、重くなる。
ヴァレンティナは、冗談めかした口調で続けた。
「いっそのこと。私の養子にしてしまおうかしら?」
弟は、即座に笑いながら首を振った。
「それは、冗談でも駄目だな。アリアは、僕の子だよ。たとえ姉さんでも、譲れない」
ヴァレンティナは、じっと弟を見つめた。
「……冗談じゃなくて、本気でも?私のところならもっと、大きな未来をあげられるわ」
弟は、言葉を失った。その沈黙を破ったのは、公爵だった。
「……アリアは、まだ精神的にも子どもだ。急ぐことはないだろう」
「……そうかしら?」
ヴァレンティナは、納得しきれない様子で言った。
「少しずつ、交流を重ねてから考えてもいい」
公爵は、静かに続ける。
「姉さんは、仕事も忙しいのだろう?」
ヴァレンティナは、再びため息をついた。
「ええ……そうね。帰ったら、山のように仕事が待っているわ」
「時間が合えば」
弟は、少し慌てて言った。 「アリアを、遊びに行かせるよ」
その瞬間。ヴァレンティナの目が、ぱっと輝いた。
「――必ず、よ?私は、酔っていても、記憶はしっかり残っているからね」
弟は、内心で思った。
(……あれ?もしかして、今の……失言だった?)
そうして、大人達は盃を再び交わした。




