ヴァレンティナ様と外出です
翌日。
朝の支度を終えた私に、ヴァレンティナ様は、いつもと変わらぬ調子で言った。
「アリアは――。猫には、意識してなれるのよね?」
一瞬、胸が跳ねた。
「……はい。出来るように、なりました」
正確には、まだ完璧ではない。 けれど、「なろう」と思えば、切り替えられる。 それだけは、確かだった。
ヴァレンティナ様は、ふっと小さく頷いた。
「それなら、今日は、外出しましょうか」
……外出?私は、思わず瞬きをした。
「もちろん。人間の姿で、よ」
心臓が、どくんと鳴る。外。 街。 人目。
「外での振る舞いを覚えることも、必要だわ」
ヴァレンティナ様は、淡々と続ける。 「馬車の乗り降り。店での行動。他人への話し方」
ひとつひとつが、今の私には、難題だった。
「アリアの周りには、見本となる女性が、ほとんどいないでしょう?」
……おっしゃる通りです。父さんは優しいけれど、淑女教育の専門家ではない。 屋敷の人たちも、私に気を遣ってくれる。 「正しい姿」を、誰かが間近で示してくれたことは、ほとんどなかった。
「どうすればいいのか、分からない、という顔ね」
ヴァレンティナ様は、私を見て、ほんのわずかに口元を緩めた。
「だから、私がいるのよ」
その一言に、胸が、きゅっとなる。
「公爵には、あらかじめ伝えてあるわ。服装も、そのままでいいでしょう」
特別なドレスでも、 飾り立てた装いでもない。 ――「今の私」のままで、外に出る。
「……はい」
小さく、けれど確かに、返事をした。こうして私は、 ヴァレンティナ様と並んで、 屋敷を出た。
残り三日の淑女教育。 その二日目は―― 街という、現実の舞台で始まったのだった。
最初の関門は、馬車だった。
「……乗ってみなさい」
ヴァレンティナ様は、何でもないことのように言う。 だが、私は知っている。 これは、ただの「乗る」ではない。私は教えられた通り、 裾を軽く持ち上げ、 足元を確認し、 背筋を伸ばして――
「違うわ」
即、訂正が入った。
「視線は下げすぎない。動きは、迷わず。馬車は“補助”ではなく、“舞台”よ」
……舞台。
言葉の重さに、内心で震えながら、 もう一度、ゆっくりと足をかける。
今度は、 スッ、と手を差し出され、 それに軽く触れるだけで、引き上げられた。
「そう。今のは、合格」
降りるときも、同じ。 焦らず、音を立てず、 「見られている前提」で動く。たったそれだけなのに、 心臓は、ずっと忙しかった。
――この時点で、もう疲れている。
次は、店だった。扉を開けた瞬間、 店員が、すぐに姿勢を正す。
「いらっしゃいませ」
ヴァレンティナ様は、 歩く速さも、 視線の向け方も、 完璧だった。
「今日は、ドレスを。この子のものを、見せてちょうだい」
声は柔らかいのに、 迷いがない。
私は横で、 ヴァレンティナ様の言葉使い を忘れないように必死だった。
「返事は、一拍置いてから」
小声で、ヴァレンティナ様が囁く。 「
焦ってはいけないわ」
……難しいです。
試着。 確認。 布の質感。 鏡の前での立ち姿。
気が付けば、 ドレスが、 靴が、 次々と決まっていく。
……あの。 これ、全部――私の、ですよね?
「サイズは、少し大きめで」
店員にそう告げるヴァレンティナ様。
……え? なぜ?私は混乱しつつ、 ただ、微笑みを崩さないように努力する。
店を出たときには、 正直、 いつもの倍は疲れていたと思う。
一方で。上品に店員と話し、 一切の隙も見せず、 自然に場を支配していたヴァレンティナ様は―― まったく、疲れた様子がなかった。
(……強い)
そんな私の疑問を察したのか、 馬車に戻る途中で、 ヴァレンティナ様は言った。
「アリアは、これから、他の貴族から、招待を受けるかもしれないわ」
……え。 もう、そんな未来の話ですか?
「ドレスは、必要よ。相手を黙らせるために」
……黙らせる。
「装いは、言葉以上に雄弁なの。場に相応しい姿で立つだけで、余計な口は、封じられるわ」
……架空の相手なのに。 もう、戦いが始まっていませんか?
それなのに。ヴァレンティナ様は、 どこか、 ほんの少しだけ、 楽しそうに見えた。
「最後に」
馬車に乗り込む前、 こちらを振り返って、 微笑む。
「ケーキでも、食べて行きましょうか?」
――ケーキ。その言葉に、 私の疲労は、半分くらい吹き飛んだ。
……流石です。 大人の女性。
甘いもので締めるところまで、 完璧でした。




