やっぱり人間を選びます
誰もいなくなった部屋に、私はそっと入った。
……私は、何をしていたのだろう。ヴァレンティナ様は、真剣に、真剣に、私に淑女教育をしてくれていた。
厳しくて。怖くて。でも――投げ出したことなんて、一度もなかった。
(私は、このままでいいの?)
胸の奥が、きゅっと痛んだ。
私は、深く息を吸って、そして、ゆっくりと吐いた。
……違う。私は、やっぱり――人間だ。猫になる力があっても。逃げられる場所があっても。淑女を目指している、人間なの。
……人間として、生きると決めたのなだから。
目を開いた瞬間、そこにいたのは――人間の、アリアだった。私は急いで服を身にまとい、迷わず、食堂へ向かった。
目指すのは、一人だけ。――ヴァレンティナ様。
食堂では、すでに食事の準備が整い、ヴァレンティナ様が席につこうとしていた。その視線が、私を捉える。
一瞬、ほんの一瞬だけ、目を見開いたのが、分かった。私は、足を止め、今まで学んできた淑女教育を、頭の中でなぞる。
背筋を伸ばす。顎を引く。視線を僅かに落とす。
そして――私は、深く、深く、頭を下げた。
それは、言い訳も、弁解も、逃げ道もない、
最大の謝罪の礼。床に視線が触れるほど、
静かに、慎重に、全身で「非」を認める所作。
「――大変、申し訳ございませんでした」
声は、震えなかった。言葉も、飾らなかった。今の私に、できることは、これしかなかったから。
それでも――これだけは、嘘じゃない。
ヴァレンティナ様は、静かに言った。
「……何が、問題なのか。わかっているのかしら?」
私は、顔を上げなかった。
「はい」
短く、けれどはっきりと答える。
「残りの時間も――」
ヴァレンティナ様は、わずかに間を置いてから続けた。
「淑女教育を、受ける気はある?」
「はい」
即答だった。
言葉に、迷いはなかった。
食堂の空気が、静まり返る。
ヴァレンティナ様は、しばらく何も言わなかった。 その沈黙が、胸に重くのしかかる。
やがて。
「……あと、三日だけ、教えるわ」
その言葉に、心臓が、ぎゅっと縮んだ。
「予定が、少し早まったの。正直に言えば……。もう、ほとんど十分よ」
……そんな。
私は、十分ではないことを、誰よりも分かっている。まだ、足りない。 まだ、追いついていない。 まだ、教えてほしいことが、山ほどある。
「顔を、上げなさい」
命じられ、私は、ゆっくりと顔を上げた。
ヴァレンティナ様は、私をまっすぐ見つめていた。
「淑女たるもの。そのような顔を、してはいけなくてよ?」
……私は、今、どんな顔をしているのだろう。泣きそうな顔? 縋るような顔? それとも、子どものままの顔?
「常に、微笑みなさい」
ヴァレンティナ様の声は、厳しく、しかし冷たくはなかった。
「涙は、武器よ。安売りするものでは、ないわ」
その言葉が、胸に、深く刺さる。
「……はい」
声は、震えてしまった。
けれど。私は、唇の端を、必死に持ち上げた。
微笑みを、作る。淑女として。
――三日間。短くて。 残酷で。 それでも、無駄には出来ない時間。
私は、心の奥で、静かに誓った。




