私は逃げた
「まさか」
ヴァレンティナ様は、静かに言った。
「猫になって、男子の部屋に――一晩、泊まって来るなんて」
……あの。目が、完全に、イッてます。
「私の」
ゆっくりと。 本当に、ゆっくりと。
「これまでの時間を、返してくれないかしら?」
……不可抗力です。邪な心は、 一切、 本当に、 これっぽっちも、 ありません。
「姉さん!」
突然、声が割り込んだ。
「アリアが、怖がってるよ!」
父さんが、部屋に飛び込んできた。
「アリアを、そんな持ち方しないで!」
そう言って、 私を掴んでいるヴァレンティナ様の手に、手を伸ばす。
その一瞬。私は、本能に従った。
――逃げる。猫のまま、 一目散に、 全力で。
……だって、怖い。
父さんも、 ヴァレンティナ様も、 追っては来なかった。気がつけば、 私は、廊下の隅で、 とぼとぼと歩いていた。
……どうしよう。怒ってる。 確実に、怒ってる。でも。 私、ずっと頑張ってきたんだ。
淑女教育も。 勉強も。 剣の訓練も。疲れて、 たまたま、 少年と一緒に寝てしまっただけなのに。
……悪いこと、したのは、分かってるけど。
ぐぅ。お腹が、情けない音を立てた。
……お腹、空いた。
でも。 部屋には、戻れない。 今は、人にも、なれない。
……じゃあ。
(少年の、ところ?)
そっと。 本当に、そっと。 食堂を覗いた。
そこには―― 少年がいた。
しかも。公爵に、捕まっている。
……え。 もしかして。説教、かな?
胸が、きゅっと縮む。
――前は、こんなふうに思わなかったのに。
……私。弱く、なったのかな?
猫のまま。 私は、その場で、立ち尽くしていた。
「……どうして」
公爵は、低い声で問いかけた。
「アリアが、猫になって、一緒に寝ていたんだ?」
少年は、少し背筋を伸ばして答えた。
「夜、眠れなくて、トイレに行ったら、アリアが、猫でいたんだ」
公爵は、黙って続きを待つ。
「眠れないみたいだったから、僕の部屋で、本を読んであげた」
「……それで?」
「そのまま、寝た」
少年は、はっきりと頷いた。
公爵は、こめかみに手を当てた。 頭痛がする、という仕草だった。
「僕」
少年は、少しだけ声を強めた。
「悪いことは、してないよ」
公爵は、即座には否定しなかった。
「……まあ、そうだが。いや……」
何かを言いかけて、 しかし、それ以上は口にしない。
「アリアも」
少年は続けた。
「絵本を読んだら、眠くなっただけなの」
その言葉に、 公爵は、深く息を吐いた。
――そこまで。
私は、それ以上聞くのが、嫌になった。そっと、食堂を離れる。
もっと世の中が平和で終わればいいのに。
そうだったら、 諍いなんて、 きっと、起きない。
……私の部屋。もう、誰も、いないかな。
足取りは、重い。それでも、 私は、自分の部屋へと戻った。
私の部屋には、まだ――ヴァレンティナ様と、父さんがいた。
「アリアは」
父さんは、静かに言った。
「つい最近まで、猫だったんだ。……たまたま、だよ」
「たまたま、ですって?」
ヴァレンティナ様の声は、冷えていた。
「あのね。貴族社会は、一度でも隙を見せたら――致命傷なのよ」
その言葉が、胸に刺さる。
「アリアは、ただでさえ、地位もない、猫になる、……脆い立場なのに」
「わかってる」
父さんは、すぐに答えた。
「でも、まだ子どもだ」
「子どもだからって、甘えとは違うわ」
ヴァレンティナ様は、きっぱりと言った。
「ここまで、どれだけ淑女として積み上げてきたと思っているの?それが――」
「……アリアは」
父さんは、少し間を置いて言った。
「頑張ってきてた。それは、確かだ」
「だからよ」
ヴァレンティナ様の声が、少しだけ震えた。
「積んできたものが、崩れるのは、一瞬なの」
悔しそうに、そう言った。
……ああ。これは。私が――ヴァレンティナ様の、信頼を、裏切った……?だから、怒っているの?
私は、ヴァレンティナ様を見ることが、できなかった。
「……食事に行こう」
父さんが、そう言った。
「……そうね」
ヴァレンティナ様は、静かに頷いた。
私は、物陰に身を隠したまま、 二人が部屋を出ていくのを、 ただ、見送った。




