家庭教師の思案
その夜。家庭教師は、机に向かっていた。
昼間の授業。そして、あの紙の束。
……改めて思い返しても、おかしい。
(五歳で、ここまでの処理速度。しかも、理解を伴っている)
エリオットは、指でこめかみを押さえた。
「計算能力が高い、か……」
ぽつりと、独り言のように呟く。
――計算ができる。
それは、単に数字を早く解ける、という意味ではない。エリオットは、羊皮紙を一枚取り出し、書き始めた。
・収支の把握
・物価の変動の理解
・税の仕組み
・領地経営の計算
・人件費と利益の予測
「……商才がある」
これは、商人だけの話ではない。
貴族にとって、数字を理解できるということは――「管理」ができる、ということだ。
さらに、彼は筆を進める。
・戦場での補給計算
・部隊の配置と距離
・時間と移動速度の把握
「軍事にも応用できる……」
剣を振るえなくても、戦を動かすことは、出来る。そして。
・研究
・設計
・建築
エリオットは、ふっと息を吐いた。
「計算ができる、というのは……」
――世界の仕組みを、理解できる、ということだ。彼は、椅子にもたれかかり、天井を見上げた。
(この子は、おそらく数字で、世界を読める。状況を把握し、先を見て、最善を選べる)
「政治家にもなれる」
「補佐官にもなれる」
「女公爵として領地を治めることも出来る」
可能性は、数えきれない。エリオットの口元に、自然と笑みが浮かんだ。
「……いや。どれか一つ、じゃないな」
複数を、同時にこなせる。おそらく。
まだ小さな手で、紙の上を埋めていくあの姿を思い出す。
(この子が、成長したら。どんな未来を、選ぶんだろう)
エリオットは、静かに目を閉じた。
「楽しみだ」
心から、そう思った。
教える立場としてではなく。
一人の大人として。
――彼女の未来を、見てみたいと。
しかし彼は、苦々しい表情になった。椅子に深く腰掛ける。つい先ほどまで、胸の内を満たしていた期待と高揚。それを、静かに、しかし確実に押し潰すように、現実が、重くのしかかってくる。
(……問題は、才能じゃない)
――アリアは、猫になる。
その事実は、考えれば考えるほど、重かった。この国には、確かに獣人と呼ばれる者たちがいる。制度上、存在は認められている。
だが同時に。彼らを「異質」と呼び、排除を正義のように語る人々も、確実に、いる。
(しかも……)
エリオットは、ゆっくりと目を閉じた。
アリアの父親は、公爵の弟。だが、爵位は持たない。公爵家の血を引きながら、正式な「家」ではない立場。それは、守りにもなり、同時に、弱点にもなる。
(中途半端な立場ほど、危ういものはない)
後継問題。派閥。期待と、失望と、比較。
そのすべてが、まだ幼いアリアの立場を、
静かに、しかし確実に、揺るがしている。
エリオットは、ふと、考えてしまう。
(……いっそ。平民だったなら。もっと、自由だったのではないか)
才能があれば、評価される。
結果を出せば、道が開ける。
血筋も、立場も、余計な色眼鏡も――背負わずに済んだかもしれない。
彼は、小さく首を振った。
――だが。
アリアは、学園を望んだ。貴族社会の縮図。
格式。序列。血筋。派閥。
才能だけでは、決して泳ぎきれない場所。
(それでも、彼女は……。そこへ行く覚悟を、もう持っている)
その純粋さが、時に、どれほど残酷な現実に晒されるかを、彼女は、まだ知らない。
(アリアの才能を……。どう、育てるべきか)
エリオットは、ふと、机に手を伸ばした。
白い紙を一枚引き寄せ、ペンを取る。
そして、迷いのない筆致で、こう書いた。
――アリアの希望を確認。
(……先ずは、そこからだ)
ペンを置いた彼は、ほんの少しだけ、口元を緩めた。
アリアの顔が、はっきりと、思い浮かぶ。
小さな身体。真っ直ぐな目。理解した瞬間に、ぱっと輝く表情。
――きっと。
(きっと、彼女は、素晴らしい女性になる)
理屈ではない。計算でもない。
それでも、そうなる未来が、はっきりと見える。……確信が、あった。
怖さはある。難しさも、ある。けれど、それ以上に。
「……楽しみだな」
エリオットは、誰もいない部屋で、そう呟いた。
家庭教師として。
そして、大人として。
この才能を。この立場を。この運命を。
どう導くのか。
彼は、静かに背筋を伸ばし、アリアの未来に向けて、覚悟を新たにしたのだった。




