老犬の話
翌日、家庭教師は静かに切り出した。
「この世界の、
人にも獣にもなる存在について――
知っておくべきだと思う」
男の子は首を振る。
「知りません。
そもそも、本当にいるのですか?」
「本当にいるかどうかは、分からない」
家庭教師は、そう前置きしてから言った。
「ただ……僕の昔の話をしよう」
部屋の空気が、少し変わる。
「昔、僕の家には
大きな老犬がいた」
その声は、穏やかだった。
「とても賢くて、優しくて、
僕はよく一緒にいた」
成長するにつれ、
家から離れるようになったこと。
家訓や決まり事が、煩わしくなったこと。
「ある日、柄の良くない連れに誘われた。
あまり良い噂のない場所だったが、
当時の僕には、魅力的に見えた」
そこに通うようになり、
入り浸るようになった。
「ある時、
知らない老人が僕の前に現れた」
――もう終わりにしなさい。
――今なら、戻れる。
「僕は嫌がった。
強い口調が、気に入らなかった」
連れが、老人に向かった。
次に見た時、老人は動かなくなっていた。
「怖くなって、逃げた」
後から知った。
そこは、非常に良くない場所だったと。
自分は、利用されるだけの存在だったと。
「家に帰った」
家庭教師は、一拍置いた。
「……老犬の姿は、消えていた」
日にちを確かめると、
老人と会った日が、
老犬が最後に見られた日だった。
部屋は、沈黙に包まれた。
男の子も、
私も、何も言えない。
家庭教師は、続けた。
「不思議なことにね」
「その老人と、老犬は、
同じ色の瞳をしていた」
「同じ色の、髪だった」
遠い目で、言う。
「彼らは、人間より
ずっと強い力を持っているのに」
「とても、優しくて……
大人しい存在だと、僕は思うんだ」
それ以上、家庭教師は語らなかった。
家庭教師は、私を見て言った。
「……僕が思うに、この猫は、とても賢い」
男の子は少し考えてから答える。
「確かに、僕の言うことをよく聞いてくれます。
でも、猫でしょう?
きっと、他の猫より少し賢いだけの……」
「そうかもしれない」
家庭教師は頷いた。
「でもね、この猫は、
時々本を読もうとしているように見えるんだ」
私は、動かなかった。
「……気のせいかもしれないが」
男の子は黙った。
確かに。
私が本を見ているのを、彼は知っている。
家庭教師は、ふっと肩をすくめる。
「これは、僕の遊びみたいなものさ」
少し、遠い笑み。
「猫と一緒に、
文字とかを教えてみたい、というだけで」
男の子は、すぐに言った。
「僕は、先生の授業が好きです」
まっすぐな声。
「猫と一緒でも、きっと好きです」
家庭教師は、何も言わなかった。
ただ、少しだけ目を細めた。
……猫は、覚えないと思うのだろう。
でも。
私なら、覚えられる。
私は、男の子の手に、そっと頭を擦り付けた。
温かい手。
その上から、
家庭教師の大きな手が、私の頭を撫でた。
何も言葉はなかった。




