ヴァレンティナ様は微笑んだ
私は、精一杯――本当に精一杯、可愛く言った。
「……とっても、頑張りました」
声のトーンも、語尾も、完璧なはずだ。
五歳児として、これ以上ない自己主張である。
「……」
返事は、なかった。その代わり。
「……僕、まだそれ、解けない……」
隣から、かすれた声がした。
少年は、目いっぱいに涙をためて、紙の束を見つめている。
……あ。ごめんよ。本当に、ごめんよ。
私は心の中で、何度も謝った。
一方。家庭教師は、というと。
「……もしかして」
ぶつぶつと呟きながら、
紙の束を取り上げ、血走った目で、最初から最後まで見直し始めていた。
「……もっと、出来るのでは……?」
……先生。目が、怖いです。
もう、やりたくありません。
これ以上は、無理です。奇跡、で終わりにしてくれませんか?
偶然とか。勘が当たった、とか。
たまたま今日は、調子が良かった、とか。
どうか、その辺で手打ちに――
「……淑女教育も」
静かな声が、落ちた。
「とっても、楽しみね」
ヴァレンティナ様だった。
声音は穏やか。
むしろ、少しだけ弾んでいる。
……あれ?
なのに。
背中が、ぞくりとした。
私は、そろりと顔を上げ、ヴァレンティナ様を見る。
――いた。
蛙を、じっと睨みつける蛇。
逃がす気のない、捕食者の眼。
……あ。
これは。
もう、逃げられないやつだ。
私は、悟った。
家庭教師は、ヴァレンティナ様に紙の束を渡した。
「――問題ないわね。やっぱり」
ヴァレンティナ様は、私が解いた紙の束を素早く一通り見終えると、そう言った。
……あれ?
声も穏やかだし、表情も柔らかい。
「むしろ、予想以上よ」
……あれれ?
もしかして、奇跡ルート?
偶然ルート?助かるやつ?
私は、淡い希望を胸に抱いた。
が。
「これだけ計算が解けるなら」
すっと、ヴァレンティナ様の視線が、私に再び刺さる。
「理解力は、十分にあるということ」
……あ。
「つまり」
一拍。
「出来るはず、なのよ」
――終わった。
「え、えっと……」
逃げ道を探す私を、ヴァレンティナ様は逃がさない。
「わからない、ではなく。出来ない、でもなく」
にこり。
「“やっていないだけ”でしょう?」
……理屈が、完璧すぎる。
「ですから」
ぱちん、と手を叩く。
「今日から、少しペースを上げます」
少し。その言葉を信じた私が、馬鹿でした。
「朝は復習」
「昼は新しい内容」
「夜は定着確認」
……少し?
「それと」
ヴァレンティナ様は、さらりと続けた。
「姿勢は当然として」
当然。
「歩き方、発音、目上の方への挨拶の仕方」
……はい?
「使用人への言葉遣い。カップの持ち方。立ち上がる時、座る時の所作」
待って。
「一挙手一投足、すべて指導が入ります」
……指導、という単語が、ここまで重く聞こえるとは。
「安心して」
ヴァレンティナ様は、優しく言う。
「出来る子に、無理はさせません」
……その“出来る子”の基準が、怖いんです。
「ほら、姿勢を正して」
私は、言われるがまま背筋を伸ばした。
「顎は引いて。視線は真っ直ぐ。足は揃えて」
……もう始まってる。
「はい、今から」
ヴァレンティナ様は、にっこり微笑む。
「一つずつ、理解を確認していきましょう」
計算と同じように。歩き方も。
声の出し方も。笑い方も。一動作ずつ。
ゆっくり。逃げ場なく。
「だいじょうぶよ、アリア」
その声は、とても優しい。
「ちゃんと、出来るようになるまで、付き合うから」
……あ。これ、逃げられないやつだ。
「全て。できて。淑女なのよ」
ヴァレンティナ様は、美しく微笑んだ。
その日。
私は――
死んだ。
何回も。




