家庭教師は用意しました
次の家庭教師が来た日は、きっと――私の一生の思い出になるだろう。
悪い意味で。
その日、いつも以上に爽やかな笑顔を浮かべた家庭教師は、やけに上機嫌そうに言った。
「今日はね、アリアにはちょっとだけ特別なんだ」
――特別。その単語を聞いた瞬間、隣に座っていた少年が、ほんの一瞬だけ羨ましそうな顔をした。
……あ。だめだ。
これは、完全に嫌な予感しかしない。
家庭教師は、にこにことしたまま続ける。
「アリアには、これを解いてもらうよ」
とん。私の目の前に置かれたのは――
分厚い、紙の束。
……え。ちょっと待ってください。
量。量が、おかしくないですか?
どう見ても「ちょっとだけ」ではありません。明らかに、「ちょっとした事件」です。
少年はというと、一瞬だけそれを見てから、すっと視線を逸らし、
「僕じゃなくてよかった」
と、全身で語る表情をしていた。
……うん。わかるよ。
私も、心の底からそう思う。
「わかるところまでで、いいからね」
家庭教師は、どこまでも優しく言った。
……先生。その笑顔が本物なのは、わかります。でも、ちっとも嬉しくありません。
私は、そっと。
本当に、そっと。
一枚目の紙を、めくった。――計算。
……ああ。これは。
過去にやらかした、あの件のやつだ。
私は、すべてを悟り、遠い目になった。
――と、そこで。どうして、ヴァレンティナ様が、ここにいるのでしょう?
午後からが、淑女教育ですよね。今は、家庭教師の時間ですよね?……出番、間違えてませんか?
にもかかわらず。私の斜め後ろから、完璧な姿勢でこちらを見下ろす視線。
――痛いです。とても、痛いです。
私は、ゆっくりと視線を紙に戻した。
――ああ。人生って、ちゃんと、帳尻が合うようにできてるんだな。
私は、黙々と問題に向き合った。
……五歳って、どこまで解けるのが普通なんだろう?引き算まで答えたから、そこまではセーフ、のはず。
うん。……桁が、増えた。まあ、ひとつくらいなら、いいか。
さらにページをめくる。……分数。
ちがうちがう。五歳は、分数できない。
やめて。お願いだから。――あ、でも、これは絵での分数か。りんごが半分に割られてて、さらに四等分されてるやつ。
これくらいなら……うん。大丈夫。
私は、紙の束に完全に集中していた。
だから、気づかなかった。
隣の少年の顔が、少しずつ、確実に青ざめていっていたことに。
家庭教師が、いつの間にか完全に動きを止めていたことに。
そして――ヴァレンティナ様が、目を輝かせたまま、一度も瞬きをせず、私を見つめ続けていたことに。
……うん。これくらい、かな?
私はそう思って、ペンを置き、顔を上げた。
――その瞬間。部屋を満たしていた、あまりにも異様な静けさを、はっきりと理解した。
誰も、動かない。誰も、喋らない。
空気だけが、重い。
……あれ?私は、ゆっくりと視線を巡らせた。
青白い少年。
石像みたいな家庭教師。
そして――獲物を見つけた目をした、ヴァレンティナ様。
……うそ。――やらかした。
私は、心の中でそう呟いた。
静まり返った部屋で、その自覚だけが、やけに大きく響いていた。




