教育1日目が始まりました
――コンコン。
まだ夢の縁にいた私の意識を、上品すぎるノック音が引き戻した。
……嫌な予感しかしない。
「アリア。起きているかしら」
扉の向こうから聞こえる、落ち着いた声。
昨日から私の淑女教育を担当することになった――ヴァレンティナ様だ。
……この人には様付けが合う。
「……はいっ」
反射で返事をしてしまった自分を、心の底から呪った。
扉が静かに開き、完璧な身なりのヴァレンティナ様が現れた。
外はまだ薄暗いというのに、この人だけ時間軸が違う。
「では、朝のチェックを始めます」
「……チェック?」
「ええ。項目は三つだけよ」
三つ。少ない。……少ないはずなのに、安心できないのはなぜ。
「まず、挨拶」
私は慌てて背筋を伸ばした。
「お、おはようございます」
「声量は可もなく不可もなく」
そう言って、さらさらと何かを書き込まれる。
……減点方式なんですね。
「次、笑顔」
「え」
「淑女は、笑顔が基本です。はい、どうぞ」
どうぞ、と言われても。
私は必死に口角を上げた。
「……」
ヴァレンティナ様は、無言で私を見つめる。
「……力が入りすぎています」
「えっ」
「それは、敵を威嚇する前の笑顔です」
ひどい。
「もう一度。自然に」
自然。自然とは何。
私は、考えるのをやめて、にこっとした。
「……まあ、さっきよりはマシですね」
マシ。その言葉に、私の心は小さく折れた。
「最後。鏡の前へ」
そう言われて、部屋の姿見の前に立たされる。
「自分の立ち姿、表情、視線。すべてを確認しなさい」
鏡に映るのは、寝起きで少し髪の跳ねた少女。
……猫だった頃は、こんなこと、気にしなくてよかったのに。
「目線が低いわ」
後ろから、すっと声が落ちてくる。
「顎を上げすぎてもだめ。はい、そこで止めて」
ヴァレンティナ様が、私の顎にそっと指を添えた。
「――今の顔」
鏡越しに、彼女の瞳と目が合う。
「それが、淑女の基本です」
少しだけ、胸がどきっとした。
「……覚えましたか?」
「は、はい」
「よろしい」
ヴァレンティナ様は満足そうに頷いた。
「毎朝、これは必ずするのですよ。基本です」
……毎朝。その言葉の重みを噛み締めていると――
――コンコン。
今度は、先ほどより少し遠慮のないノック音がした。
「はい」
私が返事をした、その直後。
「おはよう」
そう言いながら、父さんが扉を開けて入ってきて――固まった。
視界の先には、私の隣に立つヴァレンティナ様。その表情は、先ほどまでの優雅さを完全に失っていた。
……絶対零度。
「許可もなしに入るなんて。ねぇ?」
静かな声。
けれど、室温が一気に下がったのが分かる。
……怖い。怖いです。
「も、申し訳ございません……!」
父さんは、今にも消えそうな声で頭を下げた。
私は何も言えず、ただ朝日がまだ昇りきっていない空を、心の中で仰ぐしかなかった。
いつものように、朝食の時間が始まった。
――はず、だった。普段と変わらぬ様子で席につく公爵と少年。そして、その隣で、なぜか一回りほど小さくなっている父さん。
さらに言えば、使用人たちの空気が――おかしい。
……なんだろう、この緊張感。
こんなに張り詰めた朝食、初めてかもしれない。
使用人たちの姿勢が、やけに良い。歩き方が静かすぎる。食器の扱いも、いつもより慎重で、音一つ立てない。
――ぴりっ。
空気が、そんな音を立てた気がした。
「少し、よろしいかしら」
その張り詰めた空気を切り裂くように、ヴァレンティナ様が口を開いた。
全員の動きが、ぴたりと止まる。
「このパンなのだけれど」
ヴァレンティナ様は、上品にパンへと視線を落とした。
「焼きたてが一番美味しいはずよね。けれど……どうして、ここまで冷めているのかしら?」
……え。
私は思わず、自分のパンを見る。
このパン、このままでもとっても美味しいです。むしろ、猫舌の私にはちょうどいい温度なのですが。
「申し訳ございません」
使用人の一人が、即座に頭を下げた。
「ただちに、温め直してまいります」
……すごい。
一切の言い訳もなく、流れるような対応。
パンは静かに下げられ、空気が一瞬で元に戻る。
「アリア」
不意に、名を呼ばれて、私はびくっとした。
「ぼんやりしていないで」
「は、はい」
慌てて視線を戻し、食事を再開する。
……うう。なんだか、とても食べにくい。
スプーンを持つ手に、妙な力が入ってしまう。
その様子を見て、ヴァレンティナ様は小さく息を吐いた。
「食べ方にも、指導が必要ね」
……やっぱり。
「でも、大丈夫よ」
そう言って、こちらに柔らかな微笑みを向ける。
「これから、頑張りましょうね」
とても優しい言葉のはずなのに。
どうしてでしょう。
胸の奥が、きゅっと縮むような気がするのは。
私は、小さく頷きながら、心の中でそっとつぶやいた。――淑女への道は、思っていた以上に、険しそうです。




