明日の準備をしましょう
その日の夕食の席で、少年は昼間に見た絵のことを聞こうとしていた。
けれど、食事が始まって間もなく、公爵が先に口を開いた。
「明日、客人が来る」
唐突なその一言に、食卓の空気が少し引き締まる。
「もしかしたら、アリアの淑女教育の教師になってくれるかもしれない人だ」
少年が、ぱちりと目を瞬かせる。
「……決まってはいないのですか?」
「まだだ。まずはアリアと顔を合わせてから、教師になってほしいと頼むつもりだ」
――公爵が“頼む”。
それはつまり、公爵より立場が上の人物なのかしら。それとも……単に、公爵が苦手な相手なのだろうか。
「そこで、アリア」
公爵の視線が、こちらに向けられる。
「明日は、必ず人間でいるように。可能か?」
「……出来ると、思います」
そう答えると、公爵はほっと息を吐いた。
「そうか」
その一言に、はっきりと安堵が滲んでいる。
「だとしたら、服装と髪型も考えないとね」
突然、父さんが身を乗り出した。
……えっと。
家庭教師に会うだけで、そこまで気合いを入れるものなのでしょうか?
「部屋にあるものを、適当に選んでも良いでしょうか?」
思わず、そう口にする。
だって、私の部屋のクローゼットには、いつの間にかワンピースが増えていた。靴も、色、形違いで何足も。
子どもなんてすぐに大きくなるのだし、もったいない。それに、正直、毎日服を考えるだけでも大変なのだ。
「駄目だよ」
父さんは拳を握りしめ、真剣な顔で言い切った。
「アリアに、最も似合う服を選ばないとね」
「……そうだな」
そこへ、公爵まで頷く。
「彼女はとても美意識が高い。中途半端な服は、問題だな」
……ちょっと待ってください。
こんな高級品に囲まれた生活が、“中途半端”ですって?
それはさすがに、おかしいと思います。
「そうそう。今日のアリアもとっても可愛いけど、もっと可愛くしようよ」
……父さん。
言っている意味が、もう分かりません。
服を替えても、中身は変わりませんよ。
しかも、少年までそこで頷かなくていい。
「では、誰かに……」
私は言いかけた。
「これから、衣装合わせをするよ。さあ、早くご飯を食べて」
父さんは声を弾ませて言った。
……えええ。
今は、目の前の夕食のほうがずっと大切です。
デザートまで、私はゆっくり味わって食べたいのです。
急いで食べるなんて、食への冒涜ですよ。
私は父さんを見た。
父さんは、わき目も振らず、一心に食事を進めていた。
――その姿を見て、私は泣く泣く、食事を急いだのだった。
ごめんね。明日は、ちゃんと食べるから。
食後の時間は、正直、もう思い出したくもない。
クローゼットの中身を片っ端から引っ張り出され、私はそれを順番に着せ替えられた。
脱いでは着て、着ては脱いで――その繰り返しである。
「うーん。少し、色がイメージと違うかな?」
「形が、ちょっと古くさいね」
「アリアは、もっとふわっとした感じだと思うんだ」
「リボンが……これは無駄に多すぎるかな」
父さんの口から飛び出すのは、駄目出しの嵐。
言っておくけれど、父さんは批評するだけだ。
実際に着替えているのは、私なのだ。
……もう、とっても眠いのだけれど?
疲れたし。
「んー……これかな?」
ようやく決まったと思った、その瞬間。
「じゃあ、次は髪型を決めようか?」
父さんは、にこやかにそう言った。
……いや。
もう、このままで良くない?
何もしなくても、十分じゃない?
そう思った時には、すでに遅かった。
父さんは、いつの間にか用意していた鞄を、ぱかりと開く。
……えっと。
何、その膨大な量のリボンと髪飾り。
もしかして――これから、全部試すつもり?
まさか、ね。
「大丈夫だよ。僕、女の子の髪をセットしたことがあるから。任せて」
父さんは、とても良い笑顔で言った。
……その発言、どう考えても不穏なのですが。
私は、思わず涙目になった。
その夜――
遅くまで、私の髪は、父さんと闘うことになった。




