その日の夜
「……まさか、一人で木に登るとはな」
公爵は、書類の山を片付けながら、ぽつりと言った。
「梯子を取りに行っている間に、落ちたらと思ったんだ」
弟は、書類から目を離さないまま、淡々と答える。
「長い時間、木の上にいたようだしな」
公爵は、最後の一枚を揃え、書類を脇に置いた。
「ごめん、兄さん」
弟は、少し間を置いてから言った。
「手伝ってもらって」
「元々、自分の仕事だ」
公爵は肩をすくめる。
「気にしなくていい」
それから、ふと思い出したように続けた。
「しかし……よく、布なんて持っていたな」
「あれか」
弟は、ようやく顔を上げる。
「屋敷中を探しても、見つからなかったからね。屋根の上か、木の上だと思った」
「昔から、そうだったな」
公爵は、懐かしそうに言った。
「お前は、よく木に登っていた。……似たんだろうな」
「そんなところまで、似なくていいよ」
弟は苦笑する。
「兄さんは、全然、登らなかったくせに」
「……一度な」
公爵は、少しだけ声を落とした。
「とても、叱られたんだ。それ以来、登っていない」
しんみりとした沈黙が、短く流れる。
「あの木は、特に好きだった木なんだ」
弟は、ぽつりと言った。
「偶然だろう」
公爵は、即座に返す。
「……偶然、なのかな?」
弟は、静かに答えた。
公爵は、それ以上、否定しなかった。
しばらくしてから、低い声で言う。
「……けれど、次からはやめてくれよ。大事な、家族なんだから」
弟は、一瞬だけ目を伏せてから、少し声を落として答えた。
「……わかった」
やがて、公爵がぽつりと言う。
「……けれど、良かったな」
「ああ」
短い返事。
それ以上、言葉は交わされなかった。
夜は、 静かに、 静かに、 更けていった。
「今日は、おじさんの絵本がないから」
少年は、少しだけ胸を張って言った。
「僕が、代わりに読んであげる」
その声は、やけに気合いが入っている。
……毎日、読んでもらっているから、別に無くてもいいのに。 というか。 もう、眠くないのかな?
「アリア、これだよ」
差し出されたのは―― ちゃんと、絵本。
……あ。 これ、最初から読む気でしたね? 絶対。その絵本は、 とても優しい色合いで描かれていた。
――貧しい家に生まれた、一人の少女の話。
少女は、毎日働いてもお腹が空いて、 冬は寒くて、夏は暑くて、 それでも、空を見上げるのが好きだった。
ある日、少女は一人の人と出会う。 不器用だけれど、まっすぐで、 少し怖がりだけれど、優しい人。
二人は、何も持っていなかった。 けれど、 畑を耕し、 壊れた家を直し、 失敗しては笑い合い、 泣いては、また手を取り合った。
そうして―― 少しずつ、 本当に少しずつ、 二人は「幸せ」と呼べる場所を作っていく。
絵本の最後のページには、 夕暮れの空の下、 二人が並んで立っている絵が描かれていた。
とても、 あたたかい色だった。
少年は、途中であくびを噛み殺しながら、それでも、最後まで読み切った。
「……ふあ」
小さく息を吐いてから、 ぽつりと、言う。
「僕はね。アリアがいたら、きっと、何でも頑張れるよ」
……そうなの?
私は、小さく、「にゃあ」 と鳴いた。
「おやすみ、アリア」
少年は、そう言って、目を閉じた。
私は、 絵本と眠っている少年を、 交互に見てから――
そっと、 少年の頬に、顔をすり寄せた。
そして、 そのままベッドの上で、 小さく丸くなる。
ここは、 あたたかい。
たぶん、 ――今は、 ここが、 私の居場所だ。




