伯爵家から帰ってきた
公爵と少年が伯爵家へ向かうその日までは、
驚くほど――平穏だった。
時々、少年が私のそばに来て、
「あのね……」
と、何かを言いかける。
けれど、その先は続かない。
「……やっぱり、今は、いい」
そう言って、ふるふると首を振るのだ。
……男なら、はっきり言ってください。
気になります。とても。
でも――そんなふうに、弱々しく言葉を飲み込む少年も、なんだか、可愛い。
なに、これ。
もしかして、これが――
母性本能をくすぐる、というやつ?
……ううう。
そうして、
その日が来た。
公爵と少年は、伯爵家へ向かった。
――そして。思ったよりも、ずっと早く、帰ってきた。
玄関に足を踏み入れるなり、公爵は、吐き捨てるように言った。
「あんな家だったとは……」
……え。
いつも冷静で、
感情をほとんど表に出さない人が。
こんな言い方をするなんて。
――怖い。
正直、マジで怖い。
慌てて少年を見ると――
顔色は、真っ青。
目は虚ろで、焦点が合っていなかった。
……ちょっと。
なにが、あったんですか?
気になる。
とても、気になる!
「兄さん、落ち着いて」
父さんが、低い声で言った。
その時、公爵が向けた視線は――
泣きそうで、悲しそうで、それでいて、怒りを押し殺しているような。
言葉にできない、不思議な色をしていた。
「……書斎に行こう」
父さんはそう言って、
公爵を促し、二人で書斎へ向かった。
――そして 気がついた時には。
少年の姿は、どこにも、なかった。
書斎。
扉が閉まった瞬間、空気が一段、重くなった。
「兄さん……何があったのですか?」
父さん――弟は、声を抑えてそう聞いた。
公爵は、しばらく黙ってから、低い声で言った。
「あそこは……反獣人思想だった」
その言葉に、父さんの表情が強張る。
「……アリアの存在は、知られましたか?」
同じく、低い声で問い返す。
「いや。アリアのことは、話していない」
公爵は、短く首を振った。
「それは……幸いだった。だが――」
言葉が、途切れる。
「反獣人思想の存在を、知ってしまったのですね」
「ああ」
公爵は、額に手を当てた。
「もっと大きくなってから、ゆっくり教えるつもりだった」
「……まさか、こんなに近くに、存在するとはな」
父さんは、考え込むように視線を落とす。
「相手が、伯爵家……となると」
「そうだ」
公爵は、呻くように言った。
「伯爵だからな。下手には、動けん」
権力。
立場。
そして、知られてはならない存在。
重苦しい沈黙が、書斎を満たしたまま、
誰も、次の言葉を口にできずにいた。




