不快な色
その日の公爵夫人は、苛立っていた。
定期的に必ず届くはずの手紙が、
約束の日を三日も過ぎているのに、まだ来ない。
あり得ないことだった。
今までは、一度も。
(……今日なら)
そう思い、外套を羽織る。
門まで行けば、手紙を持った者と会うかもしれない。
廊下を進んだ、その時。
視界の端に、小さな影が入った。
少年が飼っている猫だ。
廊下の陽だまりで、静かに座っている。
公爵夫人は、立ち止まった。
その場には、他に誰もいない。
「……不快の色の猫ね」
低く、感情のこもらない声。
「捨てれば、いいのに」
それだけ言って、歩き出す。
猫の方を見ることは、なかった。
目を合わせることすら、しない。
私は、その場で動かなかった。
呼吸を潜め、
ただ、通り過ぎる音を聞いていた。
足音が遠ざかり、
門の開く気配がする。
公爵夫人は、外へ出ていった。
残された廊下に、
何も起きなかったかのような静けさが戻る。
けれど私は知っている。
今、確かに――
“捨てられるべきもの”として見られたのだと。
理由は、分からない。
顔も、声も、覚えられていない。
それでも、胸の奥が冷えた。
この屋敷で、
私を最初に拒絶したのは――
あの人だった。
その日は、家庭教師が来る日だった。
この世界では、
家庭教師が鞭を使うことは珍しくない。
「こんなことも、分からないのですか」
冷たい声と共に、
ピシリ、と音がした。
少年の小さな手に、赤い線が浮かぶ。
私は、机の下で丸くなっていた。
動けない。
鳴けば、余計なことになる。
少年は顔を歪めたけれど、
声を上げなかった。
「……ごめんなさい」
小さく、そう言った。
授業が終わった後、
家庭教師は公爵に報告したらしい。
――猫にかまけているから、勉強が進まないのでは。
夕食の席で、公爵は淡々と言った。
「これ以上、学習が遅れるようなら、猫は捨てるぞ」
それは命令だった。
少年の手が、膝の上で強く握られる。
「……捨てないで」
震える声。
「勉強、頑張るから」
泣きそうな顔で、それでも必死に言葉を絞り出す。
公爵は、それ以上何も言わなかった。
夜。
少年は私を抱き上げ、
自分の寝室へ連れて行った。
扉を閉め、
誰もいないことを確かめてから、
ぽつりと呟く。
「……大丈夫」
私を胸に抱き寄せて、
小さな声で言った。
「お前だって、家族だ」
私は答えない。
ただ、彼の腕の中で丸くなる。
この屋敷で、
誰も教えてくれなかった言葉。
それを、この子は知っている。
私は、そのそばを離れなかった。




