花の名前
「ねぇ、アリア。どんな花の色が好き?」
朝食のあと、少年が不意にそう聞いてきた。
……どんな花の色、か。この公爵家の庭に咲いている花以外、私は知らない。
そもそも、どんな色の花があるのかすら、よく分からない。
「……花は、みんな好きだよ」
そう答えた瞬間、少年の動きが、ぴたりと止まった。
……あれ?返答、間違えた?でも、好きな花も、好きな色も、正直、無い。
だって――猫だったもん。
「……あのね」
私は、少しだけ言い直した。
「実は、あんまり花の種類を知らないの。教えてくれたら……何か、あるかも?」
花の種類すら知らない女の子なんて、不憫だろうな、とは思う。
でも、仕方ない。あの世界には、花なんて、ほとんどなかった。
「じゃあ、図鑑見よう!」
少年は、ぱっと顔を明るくすると、私の腕を掴んで走り出した。
……ちょっと。
腕、痛い。
足、早い!
でも、やけに楽しそうだ。
書庫に着くと、少年は棚の前に立ち、背表紙を指でなぞりながら、順番に図鑑を見ていった。
「これかな?」
「……違うか」
そう言って、次、また次へ。
「んー……」
少し唸りながら、ずしりと重そうな一冊の図鑑を、両手で引っ張り出す。
……がんばってる。
「好きなのを、指差して。読むから」
……これ。
花の図鑑、というより。野草図鑑、では?
庭にある花、ほとんど載ってないんだけど?
私は、ぱらぱらとページをめくる。
「あった?」
少年が、期待した目で聞いてくる。
……うん。
完全に、野草図鑑だね。
でも――この花なら。
庭の片隅に、ひっそりと咲いていたのを、見たことがある。
私は、一つの花の絵を指差した。そこには、紫色の花弁を持つ、小さな花が描かれていた。
「《ルナリア》だね」
夜に溶け込むような、落ち着いた紫色。
「アリアは、それが好きなんだ」
少年は、嬉しそうに言った。
私は、こくんと頷く。
少年は何度か、その名を小さく口にした。
「ルナリア……ルナリア……」
そして、急に何かを思い出したように、
「僕、用事があるから行くね!」
そう言い残して、書庫を飛び出していった。
……んー。
何をしたいんだろう。
でも。あんなに楽しそうなら、まあ、いいか。
私は、ひとつ大きく伸びをした。
――その日の午後。
庭師と話していた少年が、図鑑を抱えたまま、少し青ざめた顔で戻ってきた。
「……アリア」
「なに?」
「ルナリアの、花言葉なんだけど」
そこで、言葉を詰まらせる。
「……『魅惑』、なんだって」
……へぇ。
私は、素直に思った。
「きれいな花だもんね」
そう言ったら、
少年は、なぜか耳まで赤くして、慌てたように視線を逸らした。
……?
花言葉ひとつで、どうしてそんなに動揺するんだろう。不思議だな、と思った。
夕方。
屋敷の外が、少しずつ橙色に染まり始めたころ――、弟――もとい、父さんが、両腕いっぱいに花の苗を抱えて、帰ってきた。
……。
どうするの?そんなに、たくさんの花の苗。
「アリアが、花の名前を知らないって聞いたから」
父さんは、さも当然のように言う。
……嫌な予感しかしない。
それ、わざわざ本人に言わなくていいと思う。
「アリアのために、持てるだけ買ってきたんだ」
……言い切った。迷いが、一切ない。それ、本当に必要ですか?
というか――庭師さんの業務妨害では?
「その中に、ルナリアってある?」
少年が、少しだけ緊張した声で聞いた。
「たしか、無かったな」
父さんがそう答えると、
少年は、ほっとしたように小さく息を吐いた。
……うん。
その反応、分かりやすい。
「さあ、一緒に植えよう。名前も、全部教えてあげるよ」
父さんは、キラキラした笑みで言った。
……いや。もう夕方です。
普通に、薄暗いです。
花の苗より、今の私には――
夕食の方が、だいぶ大事です。
「……明るい時に、ちゃんと花を見て教えて欲しいです」
よし。完璧な返答。
……の、はずだった。
あれ?父さん、震えてる。
なぜ?
「ああ……名前を紙に書いて、それに絵もつけて、分かるようにしておくといいかな?」
ぶつぶつ、と独り言のように続ける。
「もしくは、立札も悪くないかな……」
……。
とても真剣なのは、よく分かりました。
分かりましたけど。
そんなにも、熱意は要りません。
正直に言っていいなら――
返却したいです。
「育て方とか……きっちり勉強して、教えてあげるよ」
……おかしいな。
どうして、ここまでやる気に満ちているの?
「明日、楽しみにしてて」
……。
ただ、花の苗を植えるだけですよね?
どうして、そんなに気合が?
胸の奥に、じわじわと、不安が広がっていく。
……なんだろう。
すごく、嫌な予感がする。




