アリアの選んだ本
昼食のあと、私は少年と一緒に書庫へ向かった。
今日、読む絵本を決めるためだ。
「今日はね、アリアが絵本を選んで」
少年は、そう言って、にこにこと笑う。
……ほお。
字が読めない私に、
絵だけで選べ、というわけね。
「どんな絵本でも、いいから」
その声は軽くて、もう朝のことは、すっかり胸の奥にしまい込んだみたいだった。
……うん。
完全復活してるな。
ヨシヨシ。
私は、低い棚に並んだ絵本を、ゆっくりと眺めていく。
――絵で本を選ぶ、というのは。
砂の中から宝石を探すのに、よく似ている。
派手な色も、可愛い絵も、たくさんある。
けれど、不意に――胸の奥が、ふっと引かれる瞬間があった。
「……これ」
私が手に取ったのは、少し古びた、一冊の絵本だった。表紙に描かれていたのは、
広い、大地。草は枯れ、土は冷たそうで、
世界全体が、冬の色をしている。
その大地の真ん中に――
ひとりの少年が、こちらに背を向けて立っていた。
何も持たず、どこへ向かうでもなく、ただ、静かに。けれど、遠く――地平線の向こうには、淡い光が滲むように、日の出が描かれていた。
夜が終わり、朝が始まる、その一瞬。文字は読めないのに、この絵だけで――「終わりじゃない」と、分かる気がした。
「……こんな本、あったかな?」
少年は首をかしげて、表紙をじっと見つめる。
私は、少しだけ――ニヤリと、笑った。
……あったのよ。きっと、気づかなかっただけで。
「いいね」
やがて少年は、そう言って目を輝かせた。
「なんだか、寒そうだけど……でも、ちゃんと朝が来てる」
私は、胸の奥が、じんわり温かくなるのを感じた。
私と少年は、書庫の奥にある長椅子に並んで座った。
木製で、少しだけ背もたれが高い、古い椅子だ。
私は――字が、よく見えるように。そっと、少年の肩にくっついた。
……別に。
甘えたいとかじゃない。
文字を覚えるため、です。
教育的理由、です。
少年は、気にした様子もなく、
絵本を膝に置くと、指で一行ずつなぞりながら読み始めた。
「はじめは――なにもない、大地でした」
ページには、広い空と、ひび割れた土。
立っているのは、ただ一人の少年。
「少年は、種を蒔きました」
小さな、小さな種。
風に飛ばされそうなほど、頼りない。
「毎日、水をあげました」
雨の日も、晴れの日も。
変わらない景色の中で、少年は、黙々と水を運ぶ。
……何も起きない日が、続く。
でも。
「ある日、芽が出ました」
ほんの、指先ほどの緑。
けれど、そのページだけ、色が少し鮮やかだった。
「草が増えて、木になって……花が咲きました」
大地は、少しずつ、
冬の色を脱いでいく。
「動物や、虫たちも、集まってきました」
鳥が羽ばたき、
小さな虫が飛び、
兎のような影が、草陰に隠れている。
ページをめくるたび、
世界が、賑やかになっていった。
「そして――」
最後のページ。
そこには、
緑に囲まれ、
動物たちに囲まれた少年が描かれていた。
何もなかった場所で。
誰もいなかった場所で。
少年は――
穏やかに、笑っていた。
読み終えると、
少年は、何も言わずに、静かに本を閉じた。
……これは。
頑張れば、報われる、っていう話なのかな。
それとも――
誰かが、そばに来てくれる、っていう話なのかな。
私は、まだ言葉にできないまま、
閉じられた表紙を、じっと見つめていた。
少年は、そっと絵本を棚の元の場所へ戻した。
音を立てないように、まるで触れただけで壊れてしまいそうなものを扱うみたいに。
「……どうしたの?」
私は、思わず声をかけた。
あまりにも、静かだったから。
「あまり、好きじゃない話だった?」
そう聞くと、少年は小さく首を振った。
「……違う、と思う」
そう言って、それ以上は何も語らない。
……??
どうしたのかな。
けれど、その時の私は、
それ以上、踏み込まなかった。
私は――知らない。
その夜、少年が一人で、公爵のもとを訪ねたことを。
「父さん、聞いていい?」
夜の書斎で、少年は遠慮がちに声をかけた。
「何だ?」
公爵は、書類から顔を上げる。
「僕が……庭に、花の種をまいたら」
少年は、少し間を置いてから、続けた。
「アリアは、ずっと、ここにいてくれるかな?」
その問いに、
公爵は、ほんの少しだけ困った顔をした。
「それは……わからないな」
少年の肩が、わずかに揺れる。
「けれど」
公爵は、すぐに言葉を重ねた。
「花は、きっと喜ぶと思うよ」
「……そっか」
少年は、しばらく考えるように俯いてから、
ぽつりと呟いた。
「わからないんだね」
それでも。
「でも、喜ぶなら……花の種、まこうかな?」
公爵は、少しだけ微笑んで頷いた。
「庭師に、確認しておこう。アリアの好きな色が分かれば、なお良いだろう」
「そっか!」
少年の顔が、ぱっと明るくなる。
「父さん、ありがとう!」
その笑顔は、 昼間よりも、少しだけ大人びて見えた。
――花が咲いたら。アリアが、笑ってくれたら。
それだけで、いい。
少年は、そんなことを、
まだ言葉にできないまま、胸の奥にしまっていた。




