弟……ではなく父さんが選んだ本
――その夜。
弟――ではなく、父さんが選んだ本は、
分厚く、重く、嫌な予感しかしない一冊だった。
「じゃあ、読むよ」 父さんは、嬉々として本を開く。
……いや、待って。
その厚み。
それ、どう見ても絵本じゃない。
『――はじまりの時代、この地には、人のみが住んでいた』
……うん。ここまでは、普通。
『だが、ある日。空より異形が降り立った』
…………え?
『異形は、人を捕らえ、獣と合わせた』
………………え?
ちょっと待って。神話って、もっとこう……優しい導入じゃなかった?
『それは祝福であり、呪いであった』
いや、どう考えても呪い寄りですよね!?
『やがて異形は、何処へともなく消え去った』
……未確認生物の飛来みたいな流れなんですけど。
『残されたのは、人と獣の性を併せ持つ者たち―― 彼らは、数こそは少ないが今を生きる、この世界の住人である』
…………。
――父さん。
これ、本当に神話?
なんかこう、
「UFO来襲・人体実験・異形撤退」
みたいな内容なんだけど。
「ここまでで、二ページだね」
父さんは、しおりを挟みながら、にこやかに言った。
……二ページ?
え、今ので?
この、世界の成り立ちが歪む情報量で、
まだ二ページしか進んでないの!?
重い。
重すぎる。
これ、寝る前に読むやつじゃない。
「ねえ」
そっと、声を落とす。
「これは……みんな、知ってる話なの?」
父さんは、少しも驚いた様子を見せなかった。 当たり前のことを聞かれた、とでも言うように。
「当然だよ」
あっさりと、そう答える。
「この国に生まれた者なら、誰でも知っている」
父さんは、本の表紙を指で撫でながら続けた。
「子ども向けの絵本にも、学園の授業にも出てくる。むしろ、知らない方が珍しい」
………あ。 この国の人にとっては、
これが「当たり前」なのか。
じゃあ、私は?
猫と人が合わさった存在として、
この神話を、どう受け止めればいいの?
「続き、読む?」
父さんは、楽しそうに聞いてきた。
……やめて。 その質問が、いちばん怖い。
私は、そっと布団を握りしめながら思った。
――これ、
毎晩続くんですよね?
完全に、
教育という名の試練だった。
父さんは、本を閉じながら、静かに言った。
「これは、あくまで神話だからね。獣と人が合わさるなんて――誰も、本気では信じていない」
……ですよね。そういう扱いですよね。
でも、日本にはあった。キメラ、という存在が。
私は、黙ってその言葉を飲み込む。
「僕だって」
父さんは、私の方を見て、少しだけ苦笑した。
「アリアが初めてだよ。猫から人に、人から猫になるなんて」
……私も初めてです。奇遇ですね。まったく、嬉しくないけど。
「彼女はね」
父さんの声が、少しだけ低くなる。
「全く、普通の人だった。いつだって。どんな時だって」
その言い方が、胸に残った。
――普通。それは、きっと。この世界では、獣にもなる人は、いちばん脆くて、守られにくいということか。
知られれば、怖がられる。 分かれば、遠ざけられる。 違えば、研究される。
……そう考えると。 私は、受け入れられているだけで、十分に幸せなのだと思う。
「いつか」
父さんは、ふと、遠くを見るような目をした。
「教えてほしいな。彼女が……流されたという、その場所を」
…………。
――ちょっと。
急に、空気が。 空気が、重い。
なんですか、その間。 なんですか、その声のトーン。 どす黒いオーラが、見える気がするんですけど?
……いや。 気のせい。 気のせいだよね?
いやあああ。 やめてください。 私はこれから、眠るんです!
神話よりも。 異形よりも。 今いちばん怖いのは――
静かに何かを考えている、父さんの横顔だった。




