公爵家の書庫
家庭教師が帰ったあと、少年が私の方を見て言った。
「アリア、絵本を探しに行こう」
「うん」
私は、少年の手を取った。小さな手だけれど、迷いなく前へ進むその歩き方は、本当に屋敷の住人だ。
廊下を進み、いくつか角を曲がった先。 屋敷の奥まった場所に、それはあった。
――書庫。
重そうな扉は、鍵がかかっていなかった。 少年は慣れた手つきで扉を押し開ける。
中に入った瞬間、思わず息を呑んだ。
天井から床まで。 壁という壁が、すべて本棚。 そこに、ぎっしりと本が収まっている。
……凄い。
個人の家で、ここまでの蔵書量。 日本でも、見たことがない。 さながら――町の小さな本屋一軒分はある。
「絵本はね」
少年が、てきぱきと歩きながら言った。
「ここから、この辺りまでだよ」
指さされたのは、棚の下の方。 子どもでも手が届く、高さの場所だった。
……ちゃんと、考えられてる。
「アリアは、どんな話が好き?」
そう聞かれて、少し困る。
……正直に言えば、 本なら何でも読むタイプだし、 適当に一冊抜いても、たぶん楽しめる。
でも、それを言うのは、なんだか違う気がした。
少年は、真剣な顔で棚を眺めている。 背伸びしたり、首を傾げたりしながら。
「うーん……」
「これかな」
「いや、こっちの方が……」
しばらく悩んだ末、少年は一冊の本を手に取った。
「……こんなのは、どう?」
差し出された表紙には、 大きな猫と、小さな子どもが描かれていた。 夜の庭で、二人並んで月を見上げている絵。
タイトルは――
『月を歩く猫と、ひとりぼっちの子』
……。
偶然? それとも、わざと?
少しだけ、胸の奥がくすぐったくなった。
「いいと思う」
そう答えると、 少年は、ぱっと嬉しそうに笑った。
「じゃあ、これにしよう!」
……今日の一冊目は、どうやら、逃げ場のない選択だったらしい。
『月を歩く猫と、ひとりぼっちの子』
遠く、夜空に浮かぶ月には、
実は――一匹の猫が住んでいました。
猫は、月の上を、いつも歩いていました。
歩いて、歩いて、歩き続けていました。
理由は、ひとつ。
――仲間を、探しているのです。
地上には、ひとりぼっちの子がいました。
その子も、いつも空を見上げていました。
月を見て、猫の影を、探していました。
ある夜、ひとりぼっちの子は、月に向かって言いました。
「月ばかり歩いてないで、こっちにおいでよ」
すると、月の上の猫が、答えました。
「君が、こっちに来てよ」
ひとりぼっちの子は、少し考えてから言いました。
「ぼくが行ってもいいよ。
でも、ひとつだけ、約束してほしい」
「なに?」
「何があっても、驚かないで」
「いいよ」
約束は、交わされました。
そして――
ひとりぼっちの子は、月へ行きました。
月の上で、猫は、その姿を見て言いました。
「……君は」
言葉を、失いました。
そこに立っていたのは、
猫でも、人でもない――
とても不思議な姿の子だったからです。
ひとりぼっちの子は、少し困ったように笑って言いました。
「だから、言ったでしょ。驚かないで、って」
猫は、しばらく黙っていました。
そして――静かに、こう言いました。
「……驚いたよ。でも」
猫は、一歩近づきました。
「ぼくと、半分一緒だね」
ひとりぼっちの子は、目を丸くしました。
「うん」
そう答えて、笑いました。
月の上で、猫と子は、並んで歩き始めました。
それから、月を歩く猫は、
もう――ひとりでは、ありませんでした。
おしまい。




