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公爵に捨てられた侍女の子供ですが、猫として生きていきます  作者: りな


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38/90

字は難しいです

翌日、家庭教師は、見慣れない道具一式を抱えてやって来た。

 この世界には――

 鉛筆というものが存在しない。

 文字を書くときに使うのは、細く削った木の棒と、黒い粉を溶かした液体。

 それを布や革で簡単に濾し、先端を浸して書くという、どこか原始的な方法だった。

 ……インクとペンの原型、みたいなものだろうか。

 正直、少し新鮮だ。

「じゃあ、これを書いてみて」

 家庭教師はそう言って、紙の隅に、少し大きめの文字を一つ書いた。

 ……余裕、だね。

 私は内心そう思い、木の棒を手に取った。

 ――その瞬間、違和感が走る。

 ……あれ?

 どうやって、鉛筆って持ってたっけ?

 こんな、ぎゅっと握りこぶしを作るような持ち方……してた?

 親指と人差し指、もっとこう、軽く……?

 おかしいな。

 考えているうちに、私はそのまま棒を握りしめた。

 ――が。

 まったく、思ったように動かない。

 腕がぎこちなく、指先の力加減も分からない。

 線は震え、曲がり、途中で途切れる。

 苦心して書き上げたそれは――

 まるで、ミミズがのたうち回った痕跡のようだった。

「ふふっ」

 それを見た少年が、思わず吹き出す。

「アリア、字が下手だね」

 ……違う。

 違います。

 日本にいた頃だって、達筆とは言えないけれど、少なくとも“普通の人並み”には書けていた。

 これは、この身体が、この指が、まだ言うことを聞いてくれないだけだ。

「初めてなら、こんなものかな?」

 家庭教師は、穏やかにそう言った。

 ……慰めは、いりません。

 今のは、完全に――

 プライドを傷つけられました。

 私は、ぐっと木の棒を握り直す。

 ――見てなさい。

 絶対に、少年より上手くなってやる。

 そのためなら、ミミズを百匹でも千匹でも、書いてみせる。

 私は、静かに、しかし確かに誓った。


「字の練習ばかりでは、疲れてしまうからね」

 家庭教師は、少し考えるように顎に手を当ててから言った。

「慣れるための練習も必要だ……そうだな。毎日、絵本を読むというのはどうだろう?」

「絵本……ですか?」

 思わず聞き返してしまった。

 ……この世界にも、あるの?  絵本という概念。

「復習も兼ねてだ」  

家庭教師は、今度は少年の方を見て言う。 「一日一冊、アリアに読んであげなさい」

「えっ、僕が?」  

少年は一瞬きょとんとしたあと、ぱっと顔を輝かせた。

「どんな絵本でもいいの?」

「ああ」  

家庭教師は、穏やかに頷く。

「この屋敷の書庫にある絵本なら、どれでも構いません」

 ……書庫。絵本専用棚じゃなくて、書庫。

 この屋敷、やっぱり規模がおかしい。

「ただし」  

家庭教師は、指を一本立てた。

「絵本は必ず、声を出して読むこと。字を指でなぞりながら、ゆっくりだ。――出来るかな?」

「うん!」  

少年は、元気よく頷いた。

「アリアは字を読めないから、僕が先生なんだね」

 嬉しそうに、胸を張る。

「そうだよ」  

家庭教師は、くすりと笑って言った。

 ……先生。

 少年を、先生って呼ぶのかな? いや、呼ばない。呼ばないよね。

 ……でも。呼んだら、絶対に喜ぶ顔だ。

 少しだけ、迷ってしまった。

 ……えらいな。 ちょっと、まぶしい。

 絵本かぁ。

 どんな話なんだろう。 猫が出てくる話とか、あるのかな。少しだけ、楽しみになっている自分がいる。

 それにしても――

 この家庭教師、 本当にデキる人だ。

 少年の復習にもなって、 私の文字の勉強にもなって、 しかも、自然に会話の時間まで作っている。

 ……くっ。

 なんだか、ちょっと悔しい。

 でも。

 悔しいけど――  今は、絵本が楽しみだ。

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