猫の瞳の色
猫は、少しだけ丸くなった。そして、毛並みが良くなった。猫は必要以上に泣かず、とても大人しかった。
猫という生き物を知っている使用人達は、この猫はどこか病気でも持っているのでは……?と思うほど、静かだった。
ある日廊下を歩いていた公爵が、ふと足を止めた。昼下がりの陽が差し込む回廊。
少年の膝の上で、私は目を細めていた。食事も水も足りていて、毛並みも以前より整っている。生きることに、ほんのわずか余裕ができていた。
「……」
視線を感じ、顔を上げる。
公爵が、こちらを見ていた。
鋭い目つき。
普段なら、子供や使用人すら寄せ付けない冷たい視線。
けれど、その目には、怒りでも不快でもない、別の色があった。
公爵は、なぜか目を逸らせなかった。
猫の毛並み。
丸くなった背中。
少年の膝の上で、安心しきったように喉を鳴らす姿。
それらが、胸の奥に小さな引っ掛かりを落とす。
(……昔)
理由のない言葉が、心に浮かんだ。
公爵は、ほんの一瞬だけ目を閉じる。
――雨の音。
石畳を叩く冷たい雨。
若かった頃。
まだ肩書きに縛られていなかった頃。
城の裏手で、雨宿りをしていた青年は、一匹の猫に出会った。
痩せて、警戒心の強い猫。
それでも、手を伸ばすと逃げなかった。
ただ、濡れた毛を震わせながら、じっと見上げてきた。
名前も知らない。
言葉も交わさない。
それでも、確かにそこには温もりがあった。
――ほんの、短い時間。
公爵は、別れる時に猫に何かを言った筈だ。それは、何だったのか。ただ、猫の瞳が大きく開かれ、綺麗だな、と一瞬思った記憶だけがあった。
「……くだらない」
公爵は、低く呟いて目を開ける。
今は今だ。
そんな記憶に意味はない。
視線を外そうとした、その瞬間。
猫が、こちらを見た。
じっと。
逃げもせず、怯えもせず。
その目が、あまりにも静かで。何となく。あの猫の瞳を彷彿させて。
胸の奥が、微かに痛んだ。
公爵は、無意識に一歩近づき――すぐに、我に返る。
「……まだ、仕事がある」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
公爵は踵を返し、何事もなかったかのように歩き去った。
少年は、不思議そうにその背中を見送る。
「……今、見てた?」
私は答えない。
答えられない。
ただ、胸の奥で何かが静かに揺れていた。
公爵は知らない。
あの日、雨の中で出会った猫の名も、
どこへ行ったのかも。
どこから来たのかも。
ただ、覚えているのは。
こちらを見上げてきた、
あの猫の瞳の色。
そして――今、少年の膝の上にいる猫の瞳が、あの時と、同じ色をしていること。
毛の色も、よく似ていること。
それが意味するものを、
公爵はまだ、考えない。




