名前が決まった日
「さて……名前がないと、いろいろ困るな」
あの日、泣き疲れていた私に、公爵はそう言った。
「猫ちゃん、じゃ駄目なの?」
少年が、きょとんとした顔で言う。
その瞬間、部屋にいた大人たちが、そろって黙り込んだ。
……あ、これ、駄目なやつだ。
私の目から、さっきまで溢れていた涙が、すっと引っ込んだ。
「……さすがに、“猫ちゃん”では、人の名前としては難しいでしょう」
家庭教師が、困ったように笑いながら言う。
「うーん……」
少年は腕を組んで、真剣に考え始めた。
その様子を見ながら、公爵が私に視線を向ける。
「名前の希望は、あるのか?」
「……どんな名前があるのかも、よく分かりません」
正直にそう答えると、公爵は少し考え込み――
「待っていろ」
そう言って、部屋を出て行った。
しばらくして戻ってきた公爵の手には、一冊の分厚い本があった。
「名前の図録だ。この中から選ぶといい」
「……読めません」
即答した私に、弟がくすっと笑って隣に来る。
「じゃあ、僕が読んであげるよ」
――近い。
とても、近い。
肩が触れそうなくらい、距離が近い。
……この人、やっぱり怖いっ。
私は、反射的に身体を固くした。
弟はそんな私の様子に気づいたのか、少しだけ首を傾げて、
「そんなに緊張しなくても、食べたりはしないよ」
なんて、冗談めかして言った。
……余計に怖いです。
私は、ふと猫だった頃のことを思い出していた。
窓に映った、自分の姿。 短い毛並みと、はっきりした模様。
――アメリカンショートヘアっていう猫に、似てる。
……可愛いよ。 ちょっと。
「……アメショー」
――しまった。
口が、滑った。
「え?」
隣にいた弟が、きょとんとした顔で私を見る。
「アメ? なに? 甘いの?」
慌てて弟は、名前の図録をぱらぱらとめくり始めた。
「えーっと……メアリー?」 「アメリア?」 「アメジスト?」 「アメリアナ?」 「アメ……つく名前、結構あるな」
矢継ぎ早に飛び出す名前に、私は何も言えなくなる。
すると、黙って聞いていた少年が、ぱっと顔を上げた。
「――アリアがいい!」
全員の視線が、少年に集まる。
「なんとなく、きれいで」 「呼びやすくて」 「この子に、合ってる気がする!」
……今までの流れ、ほとんど関係ない。
けれど、少年の瞳は、きらきらと輝いていた。
私は、少しだけ考えてから――
小さく、頷いた。
「……いい、です」
もう、何でもいい。 この人たちが、そう呼んでくれるなら。
公爵と家庭教師は、顔を見合わせて、口元を緩めていた。
「決まりだな」 「良い名前ですね」
そう言って、二人は、私たちを静かに見守っていた。
――こうして私は、 “アリア”という名前をもらった。




