新しい日々
「……君は、あの猫なの?」
少年が、そっと尋ねた。
私は、小さく頷いた。
少年は一瞬だけ目を見開き、それから――とても優しく笑った。
「そっか」
そのまま、両手を広げる。
「どんな姿になっても、君は僕の家族だよ。おいで」
足元が少しふらつきながら、私は少年のもとへ歩いた。
少年は、迷いなく私を抱きしめた。
「……辛かったね」
その声は、あまりにも優しくて。
少年の手が、私の頭をそっと撫でる。
私は、また涙が溢れてくるのを止められなかった。
「ごめんね」
少年は、静かに言った。
「気づいてあげられなくて」
私は、首を横に振る。
……謝ることなんて、何一つないのに。
「ここに居ても、いいんだよ……ね、父さん」
少年は、公爵を見上げた。
公爵は、少しだけ目を伏せてから答える。
「……行く場所も、他にないだろう」
そして、私を見て、静かに続けた。
「この子が、望むのなら」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が熱くなった。
涙が、止まらなかった。
少年は、何も言わず、ただずっと私を撫でてくれていた。
その手は、温かくて。
――私は、初めて安心して泣いた。
私は、人間としての生活を始めた。
少ししてから、弟が公爵を訪ねた。
「兄さん、お願いがあるんだ」
そう切り出した弟に、公爵は視線を向ける。
「兄さんの仕事を手伝う。その代わり、この屋敷に住まわせてほしい」
「……仕事は、厳しいぞ」
「構わないさ」
弟は、迷いなく答えた。
「僕は、あの子を見守りたい。だから、何だってやる」
公爵は、ふっと小さく息をついた。
「……頼もしい言葉だな」
「知らないのかい?」
弟は、少しだけ口角を上げる。
「僕は、意外と何でもできるよ」
こうして、弟は屋敷に住むようになった。
それに伴って、公爵が屋敷にいる時間も増えた。
自然と、少年と過ごす時間も増えていった。
少年が、公爵と笑顔で話す時間ができた。
公爵夫人は、遠く離れた別荘で暮らすことになった。
ある日、公爵は弟にぽつりと漏らした。
「……彼女には、少し疲れた」
弟は、それ以上踏み込まず、静かに言った。
「……よく、頑張ってたよ」
それは、兄弟だけの会話だった。
私は、少年と並んで家庭教師の授業を受けるようになった。
新しい机。
新しい筆記用具。
そして――新しい名前。
その場所は、いつも柔らかな光に包まれていた。
ここが、私の居場所なのだと。
そう思える日々が、静かに始まっていた。




