公爵夫人は知っていた
その時だった。
廊下の向こうから、鋭い声が響いた。
「――彼が来ているって、本当なの?」
扉が勢いよく開く。
入ってきたのは、公爵夫人だった。
その視線が、弟、公爵、家庭教師を順に掠め――
最後に、私で止まった。
「……どうして……」
言いかけた言葉を、彼女は飲み込む。
そして、低く、押し殺した声で言った。
「あの、侍女の子ね。
生きて……いたのね」
……待って。
今、何て言ったの?
「……何か、知っているのか」
公爵が、硬い声で問う。
公爵夫人は、鼻で笑うように息を吐いた。
「知ってるわよ。この子の四歳の誕生日の翌日――あの侍女が、“女の顔”をしていたことを」
その言葉に、部屋の空気が凍りつく。
「屋敷を出た侍女を、私は追いかけたの」
淡々と、けれど忌々しそうに、公爵夫人は続ける。
「粗末な小屋に入っていったわ。でも、しばらくして出てきたのは――一匹の猫だった」
私は、息をするのも忘れていた。
「荷物と、彼女の服だけを残してね。
だから全部、捨てたわ。服も、荷物も」
「……何で、そんなことを」
公爵の声が、低く震える。
公爵夫人は、鋭く言い放った。
「あなたが、いけないのよ」
「……俺は、何もしていない」
「嘘よ」
即座に、否定された。
「あの女は、いつもあなたを見ていた。
それだけで、十分じゃない」
公爵夫人の目は、憎しみに満ちていた。
まるで、長い間溜め込んできた感情を、今ようやく吐き出すかのように。
公爵夫人は、冷たい笑みを浮かべて言った。
「手紙が来たのよ。あなた宛てに」
その言葉に、公爵の眉が僅かに動く。
「……どんな手紙だ」
「差出人は、あの女」
公爵夫人は、吐き捨てるように続けた。
「赤ちゃんがいます、って。働きたい、もしくはお金を貸して欲しい。この場所で待っています――そう書いてあったわ」
乾いた笑いが、部屋に落ちる。
「ははは……忌々しい」
公爵夫人は肩をすくめた。
「だから、すぐに燃やしたわ。安い紙に、安いインク。読む価値もなかったもの」
――それは、本当に?
胸の奥が、ぐしゃりと潰れる。
……母からの、手紙?
どうやって、手に入れたの?
どうやって、書いたの?
細くて、でも優しい瞳の、猫の姿が脳裏に浮かぶ。母さんはらずっと猫だったはず。
けれど、震える手で、必死に文字を書いていたのだろうか。
私の存在を、伝えようとして。
視界が滲み、涙が溢れた。
「……まだ、生きているとはね」
公爵夫人が、私を見下ろして呟く。
――違う。
母は、もう、いない。
それだけは、わかる。
その時。
弟が、一歩前に出た。
私を庇うように、背中を向けて。
「違う」
はっきりとした声だった。
「彼女の相手は――僕だ」
部屋の空気が、凍りついた。




