家庭教師と会う
お腹が空いていることに、ようやく気づいた。
出された食事を、ゆっくりと口に運ぶ。
パンを一口大にちぎり、スープをスプーンですくって飲む。
……美味しい。
猫だった頃より、味がはっきりわかる。
向かいで、弟がそれをじっと見ていた。
「君は、人間として生活していた時があったのか?」
私は、首を横に振る。
……生まれてから、ずっと猫だった。
「じゃあ、その食べ方は……見て覚えたのか?」
私は、もう一度、首を振った。
違う。
それは、前世の記憶だ。
言葉にはしなかったが、弟は何かを察したように私を見つめていた。
「……もう、逃げないよね?」
弟の声は、確かめるようだった。
「逃げない」
短く、そう答えた。
逃げても、何も分からない。
それだけは、はっきりしていたから。
「なら、ここから出ようか」
弟は、少し苦笑して言った。
「実は、この場所……大嫌いなんだ」
ちょうど食器を下げに来た使用人に、弟は声をかける。
「悪いけど、公爵を呼んでくれる?」
使用人は一瞬驚いたものの、すぐに頷いて去っていった。
牢の中に、静けさが戻る。
けれど、それはもう、閉じ込められた静けさではなかった。
弟と私は、牢を出た。
「やっぱり不安だから、手を繋ぐよ」
そう言って、弟は私の手を取った。
拒む理由はなかった。私は小さく頷く。
人間として歩く世界は、猫だった頃とはまるで違う。
視線が高い。
廊下は遠くまで見え、天井は近い。
自分の足音ひとつひとつが、やけに大きく感じられた。
使用人に案内されて辿り着いた部屋には、すでに人が揃っていた。
家庭教師と、公爵。
そして、少年。
弟は部屋に入るなり、周囲を見回してから口を開いた。
「……公爵夫人は?」
公爵は、少しだけ眉を寄せて答える。
「今朝も、頭が痛いと言ってな。朝食も取っていない」
そのやり取りを聞きながら、私は無意識に弟の手を強く握っていた。
「では、始めても良いでしょうか」
家庭教師が、静かに言った。
「先ほど、公爵から質問を受けましてね。
人間と、彼らの成長の早さは本当に違うのか、と」
私の喉が、こくりと鳴った。
家庭教師は、淡々と説明を続ける。
「彼らは、獣の姿で生まれた場合、獣の早さで、ある時期まで成長します。人間として生まれた場合は、人間の早さで」
その視線が、私に向けられる。
「獣の姿で生まれた子は、ある日突然、人間の姿を取れるようになる。その後は、人間の成長速度に切り替わるのです」
少年が、身を乗り出すようにして尋ねた。
「じゃあ……人間で生まれた子は、獣になるの?」
「ええ。普通は、親が教えるそうですよ」
少年は、さらに重ねて聞く。
「獣から人間になった子は……獣に戻れるの?」
家庭教師は、少し考えてから頷いた。
「ええ。獣と人間、どちらにもなれます。そのために、練習をするのだそうです」
……練習。
その言葉が、胸に落ちてこなかった。
どうやって?
誰が?
教えてくれる人なんて、いない。
足元から、すっと地面が消えたような感覚に襲われる。
私は、弟の手を離さないまま、ただ立ち尽くしていた。




