公爵は、見た
「……お願い。返して」
私は、そう言った。
それは、ただ一つ。
母に繋がる、唯一のもの。
男の手の中にある、小さなロケットを見つめながら。
男は、しばらく黙っていた。
そして、辛うじて声を絞り出す。
「……君は、誰だ」
「……知らない」
正直な答えだった。
名前も、立場も。
私はまだ、自分が何者なのか分からない。
「このロケットを……知っているのか?」
「それは、ずっと……私と一緒だった」
生まれた時から。
気づいた時には、近くにあった。
男の喉が、小さく鳴った。
「……母さんは?」
その言葉に、胸の奥がひりつく。
「……急に、帰らなくなったの」
声は、思ったよりも静かだった。
「きっと……生きてない」
男の眉が、わずかに動く。
「……どうして、そう思うんだ」
「町で……お酒の匂いがした人が、言ってた」
私は、思い出す。
あの日の痛みと、匂いと、声。
「蹴って……川に流した、って」
「そのあと……見なくなった、って」
男は、何も言わなかった。
息をする音だけが、部屋に落ちる。
私も、黙ったままだった。
「……これは」
男が、ようやく口を開く。
「君の、なのか」
「そう」
短く、迷いなく答える。
男の視線は、最初から最後まで、
一度も私から逸れることはなかった。
まるで、
目を離したら、すべてが崩れてしまうとでも言うように。
「……誰か、いるの?」
寝台の上から、少年の声がした。
「ちっ」
男は舌打ちし、ロケットを握りしめたまま、踵を返す。
――逃げる。
そう思った瞬間だった。
「だめ」
私は、男の足にしがみついた。
「離せ!」
男は声を荒げ、私を引き剥がそうとする。
それでも、私は離れなかった。
「ロケットを……返して」
腕を掴まれる。
強く、痛い。
髪を引かれる。
頭が引きちぎられそうになる。
それでも、私は男の足から離れなかった。
痛い。
苦しい。
けれど、それ以上に――。
「……どうした」
低く、鋭い声が響いた。
物音を聞きつけ、公爵が駆けつけてきたのだ。
公爵は、まず男を見た。
次に――私を見た。
床にしがみつく、小さな女の子を。
「……何が、あったんだ」
公爵は、男を真っ直ぐに見据えて言った。
逃げ場は、もうなかった。




