男は公爵家に忍び込んだ
今日は、家庭教師が来る日だった。
少年は机に向かい、私はその足元で丸くなる。
家庭教師は、少年にも、そして猫である私にも分かるように、ゆっくりと言葉を選んで授業を進めていた。
「では、ここはどう思う?」
問いかける声は柔らかい。
少年が考え込むと、家庭教師は急かさず、待つ。
私はじっと耳を傾けていた。
おそらく――人間のように。
家庭教師は、ちらりと私を見た。
猫は驚くほど大人しく、視線を逸らさず、言葉の流れを追っている。
本当に、話を聞いているように見えた。
(……前にも)
ふと、一年前の記憶がよぎる。
痩せて、毛並みの悪い猫だった。
決して人に懐こうとはせず、近づけば距離を取り、撫でようとすれば身を引いた。
でも、あまりに哀れで、家庭教師は時折、茹でた肉を置いていった。
猫は、食べる。
だが、決して寄ってはこない。
その瞳が、忘れられなかった。
――まるで、何かに深く傷ついたかのような目。
家庭教師は、その猫を見て、昔出会った一人の老人を思い出していた。あの良くない場所で、自分に帰れと言った老人。
自分の拒絶の言葉に対し、悲しみと寂しさが混じった、あの瞳。
やがて、猫の腹は少しずつ大きくなっていった。
そして、ある日、忽然と姿を消した。
どこへ行ったのかは、分からない。
よくある色の猫だった。
特別な特徴もない、どこにでもいる毛色。
――けれど。
今、少年の足元にいるこの猫は、
あの猫と、同じ色をしている。
家庭教師は、思わず目を細めた。
(……まさか)
あり得ない。
そう、思いながらも。
その猫が、静かにこちらを見返してくる。
知性を宿した、落ち着いた瞳で。
家庭教師は、何も言わなかった。
ただ、授業を続けた。
その日は、ごくごく普通の日だった。
屋敷の灯りはすべて落ち、
人々は深い眠りに沈んでいる。
そんな夜更け――
忍び込む影があった。
あの男だ。
暗闇の中でも迷いはなかった。
かつて暮らしていた屋敷。
床の感触も、壁までの距離も、身体が覚えている。
男は音も立てずに進み、
少年の部屋へと辿り着いた。
扉を静かに開ける。
室内は、しんと静まり返っていた。
男は目的の引き出しへ向かい、
慎重に開ける。
――あった。
小さなロケット。
それを手に取り、
ポケットへ入れようとした、その瞬間。
影が、跳んだ。
「――っ!」
猫だ。
一直線に飛びかかってくる。
男は反射的に腕で防いだ。
猫は着地し、唸り声を上げて威嚇する。
小さな身体に、不釣り合いなほどの執念。
「……厄介だな」
男は外套を脱ぎ、
再び飛びかかってきた猫を包み込んだ。
外套の中で、激しく暴れる感触。
男はロケットを確実にズボンのポケットへ入れ、そのまま立ち去ろうとした。
――だが。
急に、外套が重くなった。
ずしり、と。
猫にしては、明らかに異様な重さ。
「……?」
違和感に、男は足を止める。
次の瞬間、
男は思わず外套を取り落とした。
床に落ちた外套が、ほどける。
その中から――小さな人影が、起き上がった。
猫ではない。
小さな女の子だった。
少し伸びたの髪。
小さい肩。
男の外套に包まれ、ふらりと立ち上がる。
男の思考が、完全に止まった。
「……な……」
声にならない音が、喉から漏れる。
女の子は、まっすぐに男を見上げた。
その瞳を見た瞬間、
男の胸が、強く締めつけられる。
忘れたと思い込んでいた、あの瞳。あの色。
女の子は、小さく息を吸い――
「……待って」
震える声で、そう言った。
「それは……母が、守っていたものなの」
静まり返った部屋に、
その言葉だけが、落ちた。
男は、ただ立ち尽くしていた。
逃げることも、否定することもできずに。




