侍女は世界から消えた
彼女は、ふらりと立ち上がった。
足元がおぼつかず、男は咄嗟に彼女の身体を支える。
そのまま、抱き上げる形になった。
近づいた距離に、彼女の匂いが一気に押し寄せる。
酒と、かすかな石鹸の香り。
男は、必死に理性をつなぎ止めた。
「……部屋を、教えてくれ」
そう言うと、彼女は曖昧に指を伸ばし、
「あっち」と示した。
抱えられたまま、彼女は無意識のように男の匂いを確かめている。
その仕草が、余計に胸をざわつかせた。
「ここか……」
辿り着いたのは、簡素な侍女の部屋だった。
その瞬間、彼女は男の胸にしがみつき、
小さく、しかしはっきりと言った。
「……好きです」
それは、酔いの言葉だったのか。
それとも、本心だったのか。
男は、辛うじて保っていた理性が、音を立てて崩れるのを感じた。
——その先を、言葉にすることはなかった。
ただ、夜は静かに流れ、
選んでしまった一歩だけが、確かにそこに残った。
やがて、眠る彼女の枕元に、男は一つのロケットを置いた。
昔の自分の写真の入った、ロケット。
写真は兄にも似ていたが、何も他には持ってなかった。
(必ず、迎えに来る)
そう心の中で告げて、
男は部屋を後にした。
男は、知らない。
その翌日、彼女が一人で公爵を訪ねたことを。
静かな執務室。
彼女は胸の奥で何度も息を整え、手にしたロケットを差し出した。
「……この、ロケットですが」
声は震えていた。
勇気を振り絞った一言だった。
公爵は、机の上に置かれたそれを一目見ただけで、淡々と口を開いた。
「それが、どうにかしたのか?」
その瞳には、驚きも、戸惑いもない。
中を見ようとすら、しなかった。
ただ、冷え切った無関心だけがあった。
その瞬間、彼女の中で何かが静かに崩れ落ちた。
「……いえ。何でもありません」
彼女はそう言って、頭を下げた。
手は、最後まで小刻みに震えていた。
その日のうちに、彼女は辞表を提出した。
理由は、一身上の都合。
誰も引き止めなかった。
公爵家には使用人が多く、辞める者も珍しくない。
それは、彼女の存在が消える理由としては、あまりにも十分だった。
後日、男が公爵家を訪ねた時、
彼女の姿は、もうどこにもなかった。
「……あの侍女は?」
そう尋ねても、返ってくるのは首を横に振る仕草だけ。
男は屋敷を出て、孤児院まで足を運んだ。
「……あの子かい? 来てないよ」
年老いた職員は、少し考えるようにして言った。
「変わった子でね。気配や匂いに、妙に敏感だった」
男の耳には、
「来てない」という言葉しか届かなかった。
彼女は、どこにもいなかった。
何も……足跡すらも、残さず、
まるで最初から存在しなかったかのように。
彼女は、忽然と世界から消えた。




