28話 golden week lastday
28話
「朝よ」
その声が聞こえた時に、不思議と自然に目が覚めた。
ぼんやりと霞む脳みそを無理矢理動かして「おはよう」と言葉を吐くと彼女は意外そうな顔をして微笑んで挨拶を返した。
大きく伸びをして、先に出た彼女の後を追うようにして部屋を出る。顔を洗ってリビングに入り、ふと窓の外を見ると勿体ないくらいの快晴。
慌ただしかったゴールデンウィークの最終日が穏やかに始まった。
・・・
雨乃とくだらない雑談に興じながら朝食を摂る、昨日までの不機嫌差が嘘のように彼女は楽しげに笑っていた。
トーストを齧りながら思う、やはり泣いている顔なんかよりもこっちの方がずっと綺麗だと。
「なに? 人の顔ジロジロ見て」
「いんや、唇の端にケチャップ付いてるけど可愛いなと思って」
「……早く言ってよ」
恥ずかしそうに……はまったくせずに、いつものように鼻を鳴らしてティッシュで口元を拭った。
「雨乃は今日の予定は?」
「特になし、映画でも見ようかなぁって」
「出かけてくれば?」
「1人で?」
「静音とか夢唯とか暁姉妹でも誘って、あぁ茜さんでも」
「何言ったって家から出ないわよ、どーせ昼過ぎに揺り戻しが来るから私を家から出したいんでしょうけど」
バレバレであった、恐らく症状を使っていないのにバッレバレである。まぁでも話のもっていき方が露骨ではあった、雨乃じゃなくても気がつくか。
「刺傷は初めてだからなぁ、どんぐらいか分からん」
「私治りかけしか見てないけど、どんくらい刺さったの?」
「え? 確かずっぷし、柄の部分まで」
「あの無駄乳女、次会ったらぶち殺すから」
「おっかねぇ!」
逃げろ旭! お前サラッと俺達の前に顔出したら本気で雨乃に殺されるぞ!
「大体刺されてんのにケロッとしてんのがおかしい、普通もっとこうあるでしょ、恨みとか」
「俺以外が刺されてたら恨むけどなぁ、どうせ治るし」
しかも一日掛からずに、インスタントな傷など大した問題では無い。
「異常者め」
「幼なじみになんつーこと言うの雨乃ちゃん! 刺された傷より心に刺さった言葉のナイフの方が痛いよ!」
しかもただのナイフじゃない、突き刺さった瞬間にカエシが出るタイプの仕込みナイフだ、中々抜けなくて痛い。
「まぁまぁ、過ぎたことはいいじゃないの」
「過ぎてねぇーでしょ、揺り戻しあるんだから」
2倍かせめて3倍くらいで済まして欲しい。まぁでも、元の痛みの経験が無い分不安だ、2倍でも5倍くらいに感じるかもしれないし。
「昼は抜く?」
「うーん、タコ殴りにはされてっけど足がメインだろうしなぁ、昼飯吐かねぇと思うんだよな」
「は? なにタコ殴りって」
おっと、しまった薮蛇だった。雨乃は足のナイフだけだと思っていたらしい。
「いやー、まぁそこは置いといて」
「女の子相手にタコ殴りにされたの?」
「旭がそこら辺の人間洗脳して襲わせてきたの!」
「なにそのクソ強い症状、夕陽のクソの役にも立たないのに」
「女の子がクソクソ言うんじゃありません」
いいなぁ洗脳、めっちゃカッコイイ。字ズラかいいわ、洗脳とか持ってたら俺も症状じゃなくて能力って言えたわ、それに比べて……なんだ痛覚遅延って、しかもデメリット凄いし。
「俺の症状って回復がメインだったりしない?」
「まぁもしかしたらあるかもね」
「だったらかっこいいよね、超速再生」
「うーん、怪我前提の症状はやめて欲しいんだけど」
「すいませんでした」
せっかく一晩経って機嫌が戻った雨乃さん相手にこの手の話は避けるべきだ、早急に話題を変えねば俺の身が持たない。また不機嫌にでもなられてみろ、この後待ってる地獄が生温く感じるぞ。
「てか暁姉妹と遊び行く話、とっとと日にち決めようぜ。この前あんなんだったし」
「旭のせいでね」
はい、また薮蛇! 難しいよ、頭使わないで喋りたいよ、なんでこんな針のむしろなんですかね!? 旭のせいだ、断じて俺が悪いわけじゃない。
マジで許さねぇぞ旭、あの女……
「ま、何時でもいいんじゃない? 今度は他のメンバーも誘うでしょ? そうなったら日付合わせないといけないし」
「確かに、どこ行く? ラウワン?」
「疲れるから嫌」
「へいへい文学少女、たまにゃ身体も動かせよ」
「嫌でももうすぐ体育祭よ、最悪の気分」
上手く話がズレてくれた、暫くは症状やらの話は振らないで済みそうだ。
体育祭……そういや、もうそんな時期か。
我が校の体育祭は大抵ゴールデンウィーク後の梅雨入り前に行われるので、その度に運動嫌いの雨乃さんはこの世の終わりみたいな顔をしている。
「今年は何に出んの」
「出たくない、休みたい、学校行きたくない」
「雨乃チアやってチア」
ケラケラ笑いながら適当なことを言うと雨乃から強烈な睨みが飛んでくる。いいじゃんチア、雨乃のチアとか絶対可愛い、見なくてもわかる! 絶対見たいけど。
つーか体育祭でチアやったら俺以外も見るのか……嫌だな、そんな可愛い雨乃を他の男子に見せるのは癪だ。
「やっぱせんでいいわ、そん代わり家でやって家で。ポンポン振って俺の事応援して」
「アンタの何を応援するのよ。つーか今どき無いでしょチアとか、去年もなかったし」
「ミスコンとか時代錯誤なことやってんだからチアくらいやればいいのにな」
「全部やめればいいのよ、学校行事なんて」
雨乃にとって学校行事とは拷問であるらしい、まぁ友達少ないとどうしてもしんどいよね。
それにしても雨乃のチアは無いらしいので脳内で楽しむしかなくなる……あれ? 雨乃が持ってるボンボンが剣山に変換されるぞ? なんだこれバグか?
「せいぜい茜さんが学ラン来て応援団するくらいでしょ」
茜さんが学ラン姿で応援団してたら最早それは男よりもカッコいいんじゃないか? 絶対モテるだろ、まぁモテてんだけど。
「謎よね、茜さんがアレに入れあげてるのも」
「先輩のことアレって言うなアレって、アイツくらいにしとけ」
「アレであの人想像する夕陽に言われたくなーい」
哀れ月夜先輩、後輩からの扱いが酷い。まぁでも俺昨日あいつのせいで刺されてるしなぁ、月夜先輩なんてアレでいいわ。
「良かったじゃん雨乃」
「何が?」
「可愛い後輩が出来て」
「まぁね、確かに。自分が後輩と仲良くするなんて想像も出来なかったわ」
「まぁ同年代とも仲良くな……痛ったぁぁぁ! 足踏むなよ! この後やべぇんだから」
「大丈夫、刺された方とは逆踏んでるから」
「何が大丈夫なんですかね!?」
俺が人から傷つけられると怒るくせに、自分はいいのか自分は! 俺が抗議の目線を雨乃に向けると、俺の足を踏んづけたまま優雅にコーヒーを飲みながらウィンク。
「私はいいのよ」
「どういう理屈だ、症状使ってんのか」
「使ってませーん」
べーっと可愛らしく舌を出して食器を下げる雨乃、俺も手を合わせて皿を洗うべく立ち上がる。
あぁ、それにしても至福と言って差し支えない可愛いさだ。
俺もすっかり雨乃に調教されていた。
・・・
その後は雑談しながら皿を洗い、各々リビングでやりたいことをやった。
雨乃は黙々と小説を読み、俺は静かにゲームに勤しむ、たまに雨乃は小説から顔を上げて「そこ違うんじゃない?」とか野次を飛ばしてはケラケラと笑っていた。
騒がしいゴールデンウィークの終わりを感じさせる穏やかな時間の流れだ、こんな幸せでいいのだろうか?
その分、明日から始まる学校が憂鬱で仕方なかった、もうやんなくていいんじゃない? 学校とか、一日中雨乃と家でダラダラしていたい。
「そろそろ昼にしようか」
「お、メニューはなに?」
「うーん、決めてない」
雨乃が呟くのでゲームを切りやめ時計を見ると、時刻はあっという間に午後13時を過ぎていた。心地よい時間ほど経つのが早い、俺はトイレにでも行こうとコントローラーを置いて、立ち上がった瞬間だった。
力が不自然に抜けて、上手く立ち上がれない。
「夕陽?」
問いかけに答える余裕が無い。
嫌な汗が額に浮かぶ、上手く動けない原因は足が痙攣し始めたから……もちろん刺された足の方が。
それを自覚した瞬間、ブワッと一瞬で顔中に汗が出始める。嫌な予兆はすぐさま痛みを伴ってやってきた。
「ッッッあ、あぁぁぁぁっ!」
足の血管が弾けそうな程に熱を帯びる、灼熱ですら生ぬるい、血管に溶岩でも流されているんじゃないかと錯覚するほどの熱と痛みが足から全身に伸びて俺を襲う。
恐らく、殴られた部分も痛んでいるのだろうが、足から生み出される何倍にも増した痛みがそれを全てかき消しているようだった。
「夕陽!?」
その場に崩れ落ちる俺に雨乃が慌てて駆け寄ってきて抱きしめる。
チカチカとフラッシュする視界と痛みに支配されて上手く出来ない呼吸。ガチガチと震えるせいで上と下の歯が乱暴に激突して、叫び声と合わさって家中に嫌な音を響かせていた。
「大丈夫、大丈夫だよ夕陽……ゆっくり息して」
雨乃は俺を抱きしめると背中を擦りながら耳元で優しく囁く。俺の震えを止めるように、俺が痛みに錯乱しないように力いっぱい抱きしめる。
上手く身体を操れず、抱き返すことも出来ないままで彼女の胸の中で痛みにもがき苦しむ。
痛い痛い痛い痛い痛い、いたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいたいッッ!
もうやめてくれと願えども、もう許してくれと叫べども、痛みは必ず俺に報いを受けさせる。
安易な手段に逃げる俺を、この痛みだけが決して逃がさない。
痙攣は足から全身に広がる、まるで何かのショック症状のように全身を震わせる俺を雨乃が無理矢理に抱きしめたまま、床に押し倒して動きを止めようとする。
痛みに喘ぎ震える俺が、更に怪我をしないように……俺が傷つかないでいいように。
「大丈夫、大丈夫だから」
ガチガチと痛みに震える歯が舌を間違って噛まないように、雨乃は自分の服を咥えさせる。
「大丈夫だよ夕陽、傍に居るからね。大丈夫だからね」
業火に灼かれて絶叫する俺の頭を撫でながら、彼女がひたすらに言葉をかける。その言葉に甘えるように、俺は彼女の身体を強く強く抱きしめた。なんの気遣いもなく、指先が彼女の柔肌にめり込んでいくのも理解できずに。
痛みに犯された脳味噌はスパークし、強制的にシャットダウンさせようとしていくのがボンヤリと分かる。
その証拠に喉からは言語化できない叫びは溢れず、痙攣は次第に緩まり、全身から力という力が抜けていく。
消えかかる意識の中で、雨乃の安堵したような声だけが聞こえた。
「大丈夫だからね……」
言い聞かせているのは、俺にだろうか? それとも自分にだろうか? 思考する間もなく俺の意識は暗転する。
・・・
意識が戻り、静かに思考が再開する。
あれほど俺を苦しめていた痛みは既になく、身体はいつも通りの健康体。
目を開けると視界を埋め尽くすのは彼女の服だけ、抜け出して状況を確認しようにも後頭部から押さえつけられているため上手く身動きが取れない。
彼女を抱きしめたまま気絶してしまったせいで動けなくなった雨乃は、どうやらそのまま寝落ちしてしまったらしい。
つーか、痛くてのたうち回ってた時は正気じゃないから良かったが、シラフに戻るとこのザマは中々恥ずかしい。
いい歳こいて抱き締められて気絶とか、しかも幼なじみ相手にだ。
「雨乃」
気恥しさを押し殺しつつ、彼女の背中を軽く叩きながら名前を呼ぶと「んっ……」と浅い返事と共に、後頭部から手が離れた。
おかげで自由になった頭をすぐさま胸元から剥がして時計を見ると時刻は17時前、どうやら4時間近くも気絶していたようだ。
「ふぁぁぁあ! あー、寝ちゃってた、ごめん」
雨乃は大きな欠伸と共に体を起こし、俺もそれに伴って彼女から手を離して起き上がる。
「すまん、迷惑かけた」
「いいよ、もう慣れたし」
彼女の服の胸元は俺が咥えていたせいで、歯型が付いて伸びていた。
でも、それだけじゃない……俺が力いっぱいに抱きしめ返した彼女の背中には俺の指の後がくっきりと付いていた。
「雨乃! 背中は!?」
慌てて彼女の服に触れると、その手にチョップが飛んでくる。
「どさくさに紛れて脱がそうとすんな」
「いや、違くて……背中に傷が」
「大丈夫、爪長かかったら血が出てたかもしんないけど、夕陽短いでしょ? 身体にはなんもないよ」
「服が」
「あ、お気入りだったんだけどこれ、もちろん弁償してくれるよね?」
「あぁ、勿論」
「うん、ならよし」
彼女はニッコリ笑ってそう言うと、時計を見てしかめっ面。
「私としたことが、この時間まで昼寝なんて」
「すいません……」
「ぷっ、塩らしい夕陽ってちょっと面白い。ま、いいよゴールデンウィークだしね」
雨乃は塩らしい俺を弄るように太陽のような笑顔から小悪魔フェイスに切り替えると「抱き枕もあったしね」と呟いた。
「恥ずかしいので勘弁してください」
「えー、どーしよっかなぁ〜、みんなに言おうかなぁ」
「勘弁してください!」
「服もダメにされちゃったしなぁ〜、背中も痛いなぁ」
「腹を切ります」
「あー、うそうそ! ごめんってば」
止めるな! 雨乃を傷つけて、あまつさえ押し倒して眠るなど言語道断だ! この罪は死を持って償うしかない、でないと雨乃の両親にも兄貴にも顔向けができない。
この場合、自分の両親はカウントしないものとする、あの人達は頭がおかしいので。
「大丈夫だから、ね?」
「すまん……」
まるで幼子をあやす様に頭を撫で、クスッと笑った雨乃は立ち上がり身体を大きく伸ばした。
「お昼抜いたからお腹すいたね」
「確かに」
「でもなんか疲れちゃった」
「なんか食いに外出るか?」
雨乃は本当にお疲れのようだった。
まぁそりゃそうか、痛みに暴れる俺を宥めてそのまま硬い床で眠ったのだから。
「おっ、なになに? 奢ってくれるの?」
「兄貴からの小遣いもあるしな」
「へぇー羽振りいいじゃん」
「ご迷惑おかけしたので」
「じゃ、遠慮なく。何食べよっか? 駅前の中華とか?」
「雨乃の好きなもんでいいよ」
雨乃は「そう」と楽しげに笑うと、着替えてくると言い残して2階に上がっていく。
なんだか棚からぼた餅の気分だ、地獄を味わった後に雨乃と夕食デートとは。こんなに幸せもらっちゃっていいんですか? しかも、雨乃はなんか優しいし。
「うっしゃあ! 俺も着替えっか!」
固まった身体を解すように伸びをして、洗面所に向かう。こんなボサボサ頭で雨乃の隣を歩く訳には行かない。
・・・・・・・
私は自室に戻り、服を脱ぐ。
部屋の姿見の前で自身の肌を見ると、やはりくい込んだ爪の後が赤くなっていた、血こそ出ていないが少しだけ痛い。舌を噛まないようにと、とっさに夕陽に咥えさせた服は噛み跡がくっきりと付いた。
「……」
あの夕陽が私の身体に後ができるほどに力を込めて、服がちぎれそうなほどに噛み跡を付ける。
それがどれほど異常な痛みなのか、私では想像もつかない。痙攣して叫んで正気を失うほどの痛みを一度でも受け入れてなお、何故繰り返すのか……生きているのだから怪我もするだろう、事故にも会うだろう。
だがその渦中に飛び込んでいくのは何故なのか。
いや、分かっている。
昔から、それだけは明確にハッキリしている。
私に向ける異常なまでの執着と「守らなければ」という思いが、彼をそうさせている。
「最低だ……」
彼に泣いて縋ろうが、彼を幾ら怒ろうが……結局はその全てを私が引き起こしている。
彼はいつだって純朴なままに、幼い頃の約束を守ろうと必死になっているだけ。
「私が」
自分に嫌気が差す、どうしようもない自己嫌悪だけが全身を襲う。
彼が痛みに喘ぎ震える間、浅ましい私は一瞬でもその姿を嬉しいと思ってしまった。
彼が縋るのが私だということに、彼を抱き締められるのが私だということに。
あの明るくて優しい男を狂わせたのは私なのに……本当はあんなふうに笑いかけて貰える資格なんてないのに。
ぽたぽたと足の甲に涙が落ちた……彼を愛しているのに、私が彼を壊してしまう。
あぁ、やっぱり私は。
彼を抱きしめる資格なんてないのだ。




