【純愛・幼馴染】シャボン玉ときみと、レモンティー
「南ちゃん、好き」
言おうかどうしようか迷っていたような様子だった水嶋唄斗君。ニコッと照れくさそうに笑ったのを覚えている。
「え?」
「南ちゃん、好き。南ちゃんは……?」
「私もすきだよ!」
言いながら、小学四年生の私の手にはシャボン液のはいったボトルと、シャボン玉を吹くための道具が握られていた。『恋人』と『友達』と『家族』の好き。3つの違いも今ひとつ分かってなかった私は、ふたつ返事できもちを返した。
空は抜けるような青色で、柔らかい雲がふわふわもこもこと浮かんでいたのを、覚えている。
春が夏に変わる寸前の季節。きらきらした夏だった。
「好きなんだ……?」
「だいすき!」
「じゃあ南ちゃん、大人になったら俺と結婚して」
「うん! もちろんだよ。私、唄斗君と結婚する。結婚指輪は、ダイヤモンドがいいな」
「えー!」
「だって一生に一度だもん!」
「俺の叔母ちゃん、再婚してるけど」
それはたぶん、私にとって、仲のいい友達と一緒に暮らすの楽しそう。ルームシェアばんざーい、あとついでにキラキラした指輪欲しいー、ぐらいの意味だったんだ。
「結婚かあー」
「約束だからな」
そのときの秘密めいた表情は、頭にこびりついて離れない。
あれは、青春だったなぁと思った。まさか、幼馴染が中学のときにアメリカに行ってしまうとは思ってなかったけど、案外元気に「ばいばい!」とニコニコする私をみて、絶望した唄斗くんは、お別れの日、空港で私に、泣きながら「だいきらい」と言った。
それから、彼がどうなったのかは知らない。
でも、地元で過ごして、13年の時が経った。私は、もう10歳の女の子ではなく、23歳の大人の女性になっていた。
……なっていたのだけれど。
大学の時の友達や先輩がだんだんと、結婚していくか、地道にコツコツと出世していく。
かなり年上の友達が課長になったと聞いた時は、海の見える病院で入院していたお婆ちゃんが「時代は変わったんだねぇ」と言っていた。昔は女性はお飾りで、お茶くみばっかりだったのよ、と言われ、私の50代なかばのお母さんは、いや、私は管理職として働いてたでしょと言った。
友達たちが、赤ちゃんを作るか作らないか真剣に悩み始めたり、親の介護施設にかかるお金のことで悩んだり。子供の学資保険や、年金問題、ママ友づきあい、恋人の勃起障害(?)や、夫婦のセックスレス、キャリア、ナチュラルハラッサー上司、仕事のできない部下、姑、積立投資なんかについて皆が真剣に悩んだりしているのを傍目にみながら、私は、ありゃりゃ。大人になっちゃったぞ、と他人事のように思っていた。
どこか、上の空だった。
身体だけは大人になったけれど、なんだか、未だに税金を払っている意外の点で、大人になれた実感がわかない。流行病のせいで、はたちになった成人式は出られなかったし。気がついたら社会は18歳で成人になっていたし。マスクもやっとちょっとずつ外せるようになったけど。リモートワークが増えた。それはラッキー。
でも、手に負えない社会不安と税金は高まっていくし。
会社に不満があるわけじゃない。クリエイティブ部門のお仕事は楽しい。ちょっとハードワークで、ちょっと鬼上司が居て、ちょっと自分に才能ないんじゃないかなって同期と後輩を見たら思うだけで。
ううん。
友達や社会はこくこくと変化していくのに、私だけがぽつねんと取り残されているような、そんな孤独感に見舞われていた時のことだった。
唄斗くんと、再会した。
*
「え。唄斗、くん……?」
唄斗くんの手には、ちっちゃな手が握られていた。男の子だ。
「なぁ、うたとくん‼」
ちっちゃな男の子が慌てて、唄斗くんに声をかける。
「健太? どーした?」
唄斗くんが聞き返す。
「あの女の人、知りあい?」
健太くんと呼ばれた子が言う。
「……え。南ちゃん?」
唄斗くんは、目が点になるような、そんな顔をしていた。
「唄斗くん、子供さん、居たんだね……」
私は言ってから、しまったと思った。
すぐに、健太くんという子に対して失礼だろうと、そのみにくくて浅ましい感情に蓋をした。
「え?」
彼は生きているのだから、奥さんと子供が居るのだって、おかしくはない。彼は勉強ができた。きれいなお顔をしていた。やさしくて、思いやりのある人で。みなが疲弊したこの社会に産み落とされたくせに、唄斗くんの瞳は将来への期待できらきらといつも輝いていて。
今さら、良いとこばかりが思いつく。
「いやいやいや、健太くんは、兄さんの子供だよ。今日は親と喧嘩したって言うから、クールダウンに付き合ってやってるだけ!」
慌てた様子で、唄斗くんは言った。
「なにいってんの。うたとくんが俺と会いたい会いたいってうるさいから、来てあげたんじゃん」
「あー! そんな言い方するなら、もうノコギリクワガタのチョコレート買ってやんないからな?」
「いいよ別に。食玩くらいお母さんに買ってもらうから」
「なんなんだよ……それ……」
ちょっと疲れている顔をしているけど、唄斗くんは楽しそうだった。久しぶりに会った唄斗くんは、子供に真剣に振り回されていた。ちょっと情けない気もするけど、楽しそうだ。
「唄斗くん、いつアメリカから帰ってきたの?」
「大学院中退して、すぐ帰ってきた。数年前かな」
健太くんのパンチを太ももに受けながら、言う。
「辞めたんだ」
「大学は卒業しただけ偉いだろ。四年間ずっと、課題が終わらなくてルームメイトの男ふたりと泣くのが日課だったよ」
「そうなんだ」
「協力プレイで卒業したけど、大学院は競争がシビアすぎるし、研究室ドロッドロで脚の引っ張り合いだる……って思って、つい辞めたなぁ。後悔はしてないけど」
「研究って、理系?」
「行動経済学」
「なにそれ。凄そう」
「心理学と経済学みたいな感じだよ」
「ねえ、おれ、じゃま?」
健太くんがむっとした声で言う。
「あーっ、いやいや、そんな事ないよ~? むしろおねえさんが邪魔だよねっ! ごめんねぇー、せっかく唄斗くんと遊んでたのに」
「おばさんとこの人の久しぶりのカンドーの再会じゃん。仲良く喋れば?」
健太くんが言う。
そして健太くんは、ポッケからちいさなオモチャの端末を取り出して、父親の弟と手を繋いだまま、片手でゲームを始めた。
「えっと。ここではなんだし、また後日、どっかで会おうよ」
彼が言う。
「彼女とか居るんじゃないの?」
「居ないって。ずーっと片思いの人は居たけど、振られたし。告白してもないのに振られた事もあるし。俺、こう見えて全然モテないから」
「そうなんだ」
アメリカで好きな女の子が居て、振られたのかなと思ったら、くすくすと笑ってしまった。唄斗くんも、振られること、あるんだなぁと。
「なあ、お願い。メッセージアプリの友達追加しよ」
「いいよ」
私が10歳のときには無かったもの。スマホも、メッセージアプリも。
繋がりやすくて、便利な時代だなぁと感じる。
「じゃあね、おばさん」
健太くんが言った。
「コラッ、おばさんじゃないだろ。まだおねえさんだろ。23だぞ」
「おばあちゃんじゃん」
「お前が7歳だからそう思うだけ! ていうか、90のおばあちゃんが相手でも、おねえさんって呼んどけ」
「おじいちゃんをよろしくね」
健太くんが、ぺこんと頭を下げた。
「このおじいちゃん、けっこう、寂しい人だから。おばさん、構ってあげて」
健太くんが、なにを考えているのか分からない真顔で言ったけど、「ほんとうに」と言う。健太くんの表情は曇っていた。
「ははは。ばいばぁい、健太くん。元気でねぇ~」
「うん。さようなら。南おばさん」
「南ちゃんでいいよ」
「はずかしいから良い」
健太くんがそう言う。
「じゃ、じゃあ。南ちゃん、また、連絡、……その」
唄斗くんはしどろもどろになっている。まだ、可能性はあるのかな、と思う。一度、振ってしまったようなものだけど。
「うん。またね。また会おう」
*
数日後の土曜日の昼に、私は唄斗くんと会うことになった。
「あ、唄斗くん」
「ごめん、待った?」
「ぜんぜん。今来た」
待ち合わせ場所の喫茶店で、アイスのレモンティーを注文した。唄斗くんは、アイスコーヒーを頼んだ。シロップを持ってきてくれたけど、唄斗くんの手には、2つシロップ。相変わらず甘党だなあと微笑ましく思った。
「でも、……ほんっと、全然変わらないよな、南ちゃんって」
店員さんがコーヒーとレモンティーを持ってきた。唄斗くんがありがとう、と言う。私も頭をなんとなく下げる。
「なにが?」
「見た目もそうだけど、声とか、喋り方とか。なんか目、離したら消えちゃいそうな所とか」
ちょっと、切なそうな声。
「幽霊じゃないんだから」
言って笑う。
「本当に、昔のままだよ」
「10歳の時から、中身があんまり成長してないのかも」
言ってから、ストローでレモンティーをすする。ひんやりして酸っぱい。すこし苦いけど、シロップを入れたら、とびきり甘くなった。
「ねえ、昔遊んだ公園、行ってみる?」
「良いけど、映画始まっちゃうよ?」
「ちょっとだけ」
「なあ、この苺のパンケーキ、旨いと思う?」
「絶対美味しいやつじゃん。ピンクい。可愛い。めっちゃ苺乗ってるし」
「パフェもあるけど。苺の」
結局、苺のパンケーキ&苺パフェを、とり皿と余分なスプーンをお店に貸してもらって、分けあって食べた。
甘酸っぱいというよりは、酸っぱいだけの青臭い苺が乗った、ぼそぼそのパンケーキだったけど、唄斗くんと食べると美味しく感じる。
微妙だな、って顔をしてたけど、そんな目配せ、気が付かないふりをする。
お会計を済ませようと財布を出したら、いいよと制されて、唄斗くんがお金を払った。
「あー、ごめんね」
私が言う。
「そこはありがとうじゃない?」
「ほんとごめん」
「俺、学生じゃないからね」
大した額じゃないと言いたいのだろう。でも気持ちの問題だ。
「奇遇だね、私も社会人だった」
「気になるなら今度、お茶するときに、ドーナツかなんか奢って」
「了解しました」
とりつけられた約束に、ちょっと嬉しくなって小さく敬礼する。
唄斗くんはちょっとニヤついているというか、笑っている。
*
「わー、懐かしいなぁ。あれ、こんなに小さかったっけ。公園」
「そうだな。ジャングルジムとか、あれの3倍はあったよな?」
「そうそう。ねえ、鉄棒の前でさ、シャボン玉飲んじゃって、苦いって泣いてたよね、私」
「慰めようと思って、ジュースあげたら、味が混ざってもっとまずいってもっと泣いたよな。お前」
「あはは。ごめんごめん。今思い出したら笑えるね」
「なあ」
「何」
「約束したの、覚えてる?」
「えー? ああ、覚えてるけど。学校で、アメリカに行っても、俺のこと忘れないでって、泣きながら抱きついて。体育の先生にめっちゃ怒られてたよね」
「だっけか」
「水嶋! 女の子にいい年して抱きつくな! そういうのは金を払ってお店でやれ! って」
「あー。……苦い思い出。ていうかめちゃくちゃだな、飯川先生」
「中学生に風俗を勧める先生って、昔は面白い先生って言われたかもだけど、今の時代ならコンプラだよねぇ。元気かなぁ、皆」
私が言う。
「ていうか、そっちじゃない。約束、しただろ。覚えてない?」
唄斗くんが言った。
「うーん」
私が言う。覚えてると言ったら、笑われそうだし。ドラマみたいで恥ずかしい。
「俺は、覚えてるよ。結婚しようって言って、南ちゃんが、良いよって言ったの」
「う、あえて言わなかったのに、そっちこそ苦い思い出ほりかえしてくるじゃん」
「苦い思い出なの? なんで?」
「いや、だって。お別れの日に、空港で、ダイキライ二度と顔も見たくない、南ちゃんは人でなし、嘘つき、最低って」
「俺、そんな事言ったっけ」
まあ、寂しかったし、恋人に愛されてなかったと思ったから、と言われた。
「愛するもなにも、私、付き合ってるつもりなかったんだ。ごめん、本当に」
「……はいはい。片思いですよどうせ」
「顔真っ赤にして泣いてたよね」
「だな」
「今では私のほうが、泣き虫だよ」
「良いんだよ。大人なんて皆、家に帰って仮面剥がれて、一人になったら、泣き虫なんだから」
知ったかぶるような口調で、唄斗くんが言う。
「なーに笑ってんだ」
「南さんは水嶋くんと会えて嬉しいってさ」
「他人事じゃねえか」
「ねえ、このまま、思い出話でもしながら、ホテルとか行っちゃう?」
「お前なあ。言って良い冗談と悪い冗談があるだろ」
真っ昼間だぞ、と釘を差される。
「会えなかった期間を埋めたい」
「これからゆっくり、埋めればいいじゃん」
「私のこと、好きなの?」
「これで好きじゃなかったら、俺、おかしいだろ。……お前は?」
「うん。すき。かな」
「…………」
「よくわかんないけど、誰かのモノになってなくて、良かった」
「こっちのセリフだわ。お前、ふわふわしてるから。あっちに居た時も、どうせ俺の居なくなった一ヶ月後には男連れ歩いてるんだろなって俺が被害妄想決め込むくらいには、お前、モテてただろ」
「恋とかよく分からなかったんだ」
あ。白いお月さまが、浮かんでいる。
まだ昼なのに。めずらしいなと思った。
「唄斗くん、やり直そう。やり直してくれる?」
「いいよ。もうあの時の、泣き虫のうたとくんは居ないけどな」
「可愛いところは変わってないよ」
「格好いいって言って欲しかったなー?」
「私、可愛い人が好きだから」
「そう」
俺も、と言った唄斗くんは、たしかにもう、うたとくんではない。背も高くなったし、声も低いし、大人の顔つきになっている。私も、子供のみなみちゃんではなく、大人の南さんになっているのだと思う。
「本当にホテル行かないの?」
「なんでそんなにそれ、推してくるんだよ。昼間からこんな場所でホテルとか言うな」
「もう二度と会えないような気がするから」
「会えるだろ、なに、転勤とかあるの?」
「クリエイティブ部は転勤あんまり聞かないなぁ。うちの会社はってだけかもしれないけど」
「へえ、クリエイティブ系なんだ。格好いいじゃん。なに、デザイナー?」
「いや、購買意欲を促進させるキャッチフレーズとかを作る担当だよ」
「じゃあ、ホテルに行きたくなるような意欲を促進させるキャッチフレーズとか作ってみれば」
からかうような意地悪な言い方だ。
「それは、またの機会にしとくね」
「南」
めずらしく、南と呼ばれた。
「南は半分冗談みたいに思ってるかもしれないけど、俺は、本気だから」
「そうなんだ」
私のそっけない言い方のなかに、どれだけの喜びがつまっているか知らないくせに。
それが恋でなかったとしても、唄斗くんとの大喧嘩は、一番の人生の後悔だったから、また、会えて、こうして仲良くしてくれるだけで、どれだけ嬉しいか。
変わってないのはお互い様だと思う。
「俺、好きだよ。ずーっと、好きだったよ。いや、さすがに大学生のとき、一瞬ちょっと別の人に気が移りかけたことはあったけど。でも、ずーっと、好きだった」
「じゃあ、手を繋いで帰ろう。そうしよう」
「映画とか観ないの? スマホで見たら、まだ全然、観たいって言ってた映画、やってるみたいだけど」
「チケット売ってるかなあ」
「買えなかったら、俺のオススメの映画観よ」
「なにそれ」
「もうストリーミング配信サービスで観たやつだけど、凄い面白いよ」
「じゃあ、夕方映画、夜はカラオケですな」
「はは……元気だなぁ」
「唄斗くんと居ると元気が出るんだよ。唄斗くんの才能だと思う」
「俺は疲れてるよ。振り回されるからドキドキしてる」
「残念! ほんとうにドキドキしてる人は、これみよがしにドキドキするんだ……なんて言ったりしません!」
「ほら、早く行こ。映画始まっちゃうから」
「そうだね」
手が繋がれた。あ、たしかに、すごい脈打ってるのがわかるし熱い。
ドキドキしてるや、この人。……と思った。
*
潰れかけのショッピングモールについてる、映画館へ来た。
映画館の座席に座ったときも、照明が真っ暗になったら、ずっと、ぎゅっと手を繋いでいた。唄斗くんを見たら、彼も私を見てきた。そして秘密めいた笑顔になった。ドキッとした。
今日もまた、一生忘れられない、頭にこびりつくような、でも、素敵な日に、あとから振り返ったときに、なったらいいな。
そう、願った。きらきらした夏の昼下がりのことだった。