純白の天使【完結】
「それじゃ、明日は寝坊しないでね。緊張しすぎないでよ」
『もちろんだよ、明日はぼくらの結婚式なんだから。きみこそ、ゆっくり休んでね』
理沙は幸せそうな笑みを浮かべながらアルバムのページをめくった。子どもの頃の自分と若かりし頃の父親が写っている。
「それじゃあ、また明日」
『うん、おやすみ』
「おやすみなさい」
彼女はスマホの画面をタップし、ドレッサーに置き、ブラシで髪をとかした。
トントンと控えめにノックがされ、「入ってもいいか?」と父親に訊かれる。
理沙は「はい、どうぞ」と返事をした。
父親の文哉は神妙な顔つきをして、分厚いアルバムを手に理沙の部屋へ入る。
鏡越しに理沙は父親に声を掛けた。
「どうしたの、パパ。随分と浮かない顔ね。娘の私が結婚するのに、しみったれた雰囲気でいられちゃ困るわ。私がいなくなるから、さびしいの?」
文哉は顔をくしゃりと歪めた。アルバムを持っていない左手の人差し指で首の後ろを掻いた。
「……そうかもな。親子ふたりで二十五年以上、一緒に暮らしてきたんだから」
「ちょっと平気? 私がいなくなっても三食、しっかり食べてよね。外食や中食ばかりじゃ栄養が偏るわ。食器洗いもしっかりね。スーツを脱ぎっぱなしにすると、しわになるわ。ハンカチは、しっかりアイロンをかけてね。洗濯物は何日も溜め込むと汚れや臭いが落ちにくくなるわよ。それから……」
まるで呪文を唱えるように理沙は、まくしたてる。
文哉は「わかってる、わかってる。耳にタコができそうだ!」と両手で耳を塞いだ。
「娘である私を理由にして再婚しないし、恋人を作らないパパを心配してるのよ!」と理沙が文哉に反論するのが日常茶飯事。
すると文哉は、理沙の婚約者を引き合いに出して「きみは俺だけでなく彼に対しても、こんなに口うるさいのか? そんなことを新婚早々からしていたら、結婚生活もすぐに破綻するぞ!」と怒りをあらわにする。
「そんなことパパに言われなくても、わかってるわよ。第一、彼はルーズなパパと違って、私がいちいち言わなくても先にやってくれるわ!」――といった具合に結婚前夜も口論になるのかと、理沙はひそかに息をつく。
しかし文哉の反応は彼女の予想を裏切るものだった。
「……わかってる。きみに心配は掛けない。俺は、ひとりでも平気だ」
静かに告げ、彼女が資格試験の勉強や職場で終わらなかった仕事をするために使っている椅子に腰掛け、沈んだ表情を浮かべた。
父親の様子に違和感を覚えた理沙は父親のほうへ顔を向ける。
「どうしたの、パパ。やっぱり私が彼と結婚するのに反対してる? 彼と私じゃ釣り合わないから……」
口をへの字にした状態の文哉が肩をすくめる。
「理沙、きみと彼は、お似合いだ。それに向こうのご家族は温かみがあるし、彼はすごくいいやつだ」
「だったら、どうしてそんな顔をするの? 私が、お嫁に行くのが、おもしろくない?」
「そんなことあるはずがない。ただ……」
「ただ?」
「俺みたいな卑怯者が、きみのようにすばらしい女性の結婚式に出ていいのか――悩まずにはいられないんだ」
そうして文哉は机の上にアルバムを広げた。
理沙は父の横に立ち、机の上に広げられたアルバムに載っている写真を凝視する。
「これ……」
「話すタイミングは、いくらでもあった。言い訳でしかないけど、なかなか話を切り出せなかったんだ。きみに嫌われて『嘘つき! あんたなんか父親じゃない!』って言われるのが怖くて、ずっと勇気を出せなかった」
そこには高校生くらいの文哉と仲睦まじそうな若い男女、そして――女性に抱っこされている赤ちゃんがいた。
刑が決まり、死の足音がひたひたと近づいてくることにおびえる罪人みたいに、文哉は悲壮感あふれる姿をしていた。彼は、神父の前で告解する信徒のように、自らの罪を理沙に語る。
文哉は父親の顔を知らず、水商売をしている母親とふたり暮らしだった。母親は文哉が物心がつく頃には肝硬変で亡くなった。
おじ夫婦が喪主となり、文哉の母親の葬式を行ったのである。
唯一の保護者を失った文哉はおじ夫婦に引き取られた。
しかし、おじ夫婦の実子からひどくいじめられ、殴る・蹴るの暴行を毎日受けていたのだ。
夫婦は五歳の文哉を守ろうとせず、すでに高校生だった実子の「こいつが俺に「喧 《けん》嘩をふっかけてくるんだ」という言葉を信じた。
何より「殴るぞ」と十八歳の青年に脅された文哉は、彼のパシリをさせられたり、万引きなども無理やり、やらされてきたのだ。
ある日、大学生になった長男は遊ぶ金ほしさに文哉を呼びつけた。おじ夫婦の金庫の中にある現金を盗んでくるよう命令したのである。
文哉はいやがったが男に頬を打たれ、命令を聞くしか選択肢がなかった。そして金庫の中にある現金を手にしている姿を、おじ夫婦に見られてしまったのだ。
結果、「盗っ人」は家から追い出され、親戚のうちをたらい回しにされた。
彼が行き着いた場所は、養護施設である。
運の悪いことに劣悪な環境にあたってしまい、そこでも年上の男子たちからいじめられ、中学を上がる頃には目が底なしの井戸のように暗くなっていた。
学校でも不良たちから目をつけられ、いじめられる毎日。
我慢ならなくなった彼は、いじめっ子を威嚇するために椅子を窓へ向かって投げつけたのだ。
そうして文哉は警察で事情聴取を受けることになった。
いじめっ子の母親は「うちの息子に限って、いじめをするなんて絶対にあり得ない!」の一点張り。厚顔無恥にも「むしろ文哉くんのほうが、うちの息子をいじめていたんですよ」と警察や教育委員会、学校に訴えた。そうして「息子をいじめた」文哉に謝罪と賠償金を求めたのである。
その間、文哉は出席停止となり、施設で過ごすことになった。
信頼できる家族や友だちが彼にはいなかったのだ。
誰も信用しない・信用できない文哉のもとへ、ある日、見知らぬ若い男女がやってきた。
年若い夫婦は、文哉の養父母になりたいと言いだしたのである!
養子を求める大人たちは、文哉が万引きの常習犯だと知るや否や、養護施設へ来なくなるのがお決まりだ。
文哉は、「この夫婦もいずれ来なくなるだろう」と、彼らに何も期待していなかった。
しかし、この夫婦は違った。仕事の合間を縫って、何度も何度も文哉に会いに来る。そのたびに文哉に「何があったのか」「大丈夫か」と声を掛けてくる。
文哉は困惑した。
そうして日が経つうちに男が腹違いの兄であると知った。
文哉たちの父親には何人もの愛人がいた。
じつのところ文哉の母親と、文哉の腹違いの兄の母親は子どもの頃からの親友で、文哉の母親の手助けがなければ、兄はこの世に生まれなかったという衝撃的な事実を、義理の姉から聞かされたのである。
警察官である兄と法医学者である義姉や、その仲間たちの助けにより、文哉が学校や施設、おじ夫婦のもとで日常的にひどいいじめや虐待を受けていた事実が明らかになった。
文哉は混乱しながらも、もう一度人を信じてみたいという思いから、ふたりの養子となったのだ。
高校生活は文哉にとってバラ色だった。仲のいい兄と、やさしい義姉と穏やかな時間を過ごせたからだ。
文哉が高校を卒業する頃、夫婦は新しい命を授かった。
当初、文哉は義姉が妊娠し、お腹に赤子がいる状態にどのような反応をしていいのか、わからなかった。
ギャーギャー電車の中で泣く子どもを目にするのが大の苦手。
大人や子ども以上に何を考えているか理解不能な赤ちゃんや幼児は、彼にとって地球外生命体である宇宙人のような存在で恐ろしくはあっても、かわいいとは到底思えなかった。
だが義姉が悲鳴のような声をあげて出産し、生まれたての赤ちゃんを初めて見たとき、文哉の意識は変わった。
兄と義姉のよいところを合わせたような姿をした赤子が、とても愛おしく思ったのだ。世界史の資料集に載っていた海外の巨匠が描いた白い天使のように愛らしく、目に入れても痛くないほどの存在。目の前のか弱く、小さな存在を大切にしたい、守りたいと心の底から文哉は思った。
そうして文哉は理沙の面倒を積極的に見て、義姉の手伝いをした。理沙のおむつ交換やミルク、お風呂となんでもやり、言葉を発する段階でもないのにあきることなく言葉掛けをした。
警察官の兄が「どちらが父親かわからなくなりそうだ」とへそを曲げるくらいに文哉は、理沙を大切に育てたのである。
そうして四人家族は幸せな時間を過ごした。
だが――幸せな時間は長く続かない。
文哉の兄が、立てこもり事件を起こした容疑者に殺されかけた一般市民を守って殉職した。
文哉は大学を中退し、企業に勤め、幼い理沙と義姉を守るために働いた。その矢先に義姉が子宮がんの末期であることを知ったのだ。
抗がん剤治療を受けたものの効果は見られず、三十代前半という若さで義姉は、この世を去った。
そうして文哉は亡くなった理沙の父親として文哉の兄や義姉の友だち、仕事仲間にも口裏を合わせてもらい、厚意でサポートをしてもらいながら、理沙を育てたのだ。
「だから俺はきみの父親じゃない。パパと呼ばれる資格はないんだ」
うめくように声を発した文哉は文字通り、頭を抱えた。
「兄貴や義姉貴に引き取られたときに『もう二度と嘘をつくな』と言われて約束をした。だけど俺は約束を破り、二十年以上も、きみに対して嘘をつき続けた大嘘つき野郎なんだ」
無言のまま理沙は文哉の懺悔に耳を傾けていた。眉を八の字にしたまま唇を開く。
「知ってたよ。パパが本当のお父さんじゃないって」
彼女はポツリとつぶやいた。
「えっ……」
状況を理解できない文哉が戸惑いの声をあげる。
「――私は二歳だったから、お父さんとお母さんのことを覚えてないよ。ただ、パパとあんまり顔が似てないなって、ずっと思ってたんだ。小さい子どもだったときは『私を生んで、すぐに亡くなったママと似ている』って言葉を信じたよ。でも大きくなっていくうちに違和感を持つようになったんだ。パパが何か大切なことを隠してるって。
小学校二年生くらいかな……。うちに来る大人たちが、いつもパパのお兄さんとお義姉さんの仏壇で手を合わせた後、パパと話をしているのをたまたま聞いたの。『本当の両親のことを話すべきだって』。専業主婦であるはずのママが法医学の先生たちと交流があるのは妙だと思ってたし、『理沙ちゃんのパパはヒーローだ』なんて警察の人たちが言うからおかしいと思ってた。それで遊びに来てくれた法医学の先生に聞いたの。私は『拾われっ子なの?』って。そしたら、お父さんと、お母さん、それからパパのことを全部話してくれたの。パパが作った空想世界のママのこともね」
「パパなんて大嫌い!」と理沙が反抗期真っ盛りだった頃を思い出した文哉は言葉をなくした。
「先生を怒らないでね。私が『養護施設からもらわれた子だ』って言ってる姿を見て真実を教えてくれたの」
「……そうか、きみはずっと前から俺が大嘘つきだと気づいていたんだな」
閉じたアルバムを抱えて文哉は理沙の部屋を後にしようとする。
「違う。パパは大嘘つきなんかじゃない!」
大声で叫んで理沙は文哉のことを引き止めた。
「パパが私のパパじゃなくて、お兄ちゃんや、おじさんだったら、きっと受け入れられなかった。『なんで理沙にはパパとママがいないの?』ってパパをすごく困らせたはずだよ。心ない言葉を言って傷つけて、すごく後悔したと思う。だから、そんなことを言わないでよ」
「だけど、俺は……子どもの頃から最低なことばかりしてる」
自嘲気味な笑みを浮かべて文哉は理沙のほうへと振り返る。
「万引きをしたり、人様の金を盗もうとした。挙げ句の果てには、いじめられるのに堪えかねて人を殺そうとしたんだ! 椅子を窓に投げつけてなかったら、俺をいじめていたやつの頭を殴って殺していたよ……!」
「極悪非道な人は、そうやって罪の意識を感じたりしないよ。きっとお父さんや、お母さんが生きてたら悲しんだよ。お父さんと、お母さんはパパに感謝するし、パパを『大嘘つき』なんて責めたりしない……。私を守るために、やさしい嘘をついてくれたんだもん。だから私は今日まで、やってこれた。パパを父親として尊敬してるよ」
目に涙を浮かべた理沙は、眉間にしわを寄せている文哉のことを見つめながら、胸元で両手を握りしめた。
「パパは……私を残して明日、消えるつもりだったんでしょ。アメリカ行きの航空券。明日の午前の便を持ってる。――気づかないと思った?」
すると文哉は理沙から目線を外し、フロリーングの床に何か文字でも書かれているかのように、じっと注意深く見つめた。
そんな父親の態度を目にした理沙は、明日が結婚式だというのに絶望した表情を浮かべる。
「婚約者と結婚して、お義父さん、お義母さんたちとうまくやっていけるからって、もう二度と私の前に現れないつもりなんでしょ? 子どものときに警察のご厄介になったり、人を殺しかけたから『自分には子どもの父親でいる資格はない』って、自責の念に駆られてるって警察の人も、先生たちも言ってたよ。だけど……そんなのやめて。明日は私の結婚式なんだよ!?」
「理沙……」
「私の本当のお父さんと、お母さんはもうとっくの昔に死んじゃって、この世にいない……。パパまでいなくなるなんて、そんなのやだ……! さびしすぎるよ……あまりにも、ひどい……」
「……俺は兄貴や義姉貴に助けられ、救われた。あの人たちのおかげで俺の人生は変わったんだ。大人になったら、ふたりに親孝行みたいなことを、たくさんしたかった。ずっとそばにいてくれると思ってたのにふたりとも呆気なく死んで、結局、何もできなかった。おまえを育てたのは、ただの罪滅ぼしなんだよ。そんなやつが父親として式に参列して、花嫁であるおまえとヴァージンロードを歩く? そんなこと、あっていいわけがない。間違っている。おまえを不幸にして……」
「パパが目の前からいなくなっちゃうことのほうが不幸だよ! お父さんと、お母さんがいなくなって悲しい思いをしたのに、同じような思いを私にさせるの……!? お願いだから、どこにも行かないで……ずっと理沙のパパでいてよ……」
幼い子どものように泣きじゃくる理沙の姿を目にして文哉は、ため息をついた。降参だといわんばかりに手を広げ、理沙の体を抱きしめた。夜泣きをする赤子をあやすように背中を叩いてやる。
「ごめんな……理沙。パパが悪かったよ。頼むから、そんなふうに泣かないでくれ」
「パパ……」
「きみは明日、愛する人と結婚するんだ。喜びの涙を流すべきであって、悲しみの涙を流すものじゃない」
公園で走っている最中に転び、怪我をしてしまった理沙の涙を拭ってやったときのことを思い出しながら、文哉は理沙の涙を手で拭ってやった。
「――パパ、どうかな?」
理沙はウェディングドレスを着た姿を何度も見せているというのに、ふたたび文哉に意見を求めた。
文哉は今日の主役である娘に微笑みかけた。
「すごくすてきだ。まるで天使みたいだよ。彼も喜んでいただろ?」
「うん、『すごくきれいだ』って褒めてくれたの」
頬紅を塗っているからだけでなく、婚約者の言葉を思い出して照れている娘の姿を微笑ましく思いながら文哉は理沙のために腕を貸した。
理沙は文哉の腕に掴まり、ピンクのバラのブーケを持ち、扉が開かれるのを今か、今かと待っていた。
「喧嘩なんてしないで仲よくするんだぞ。新婚早々、俺のところに帰ってくるなんて真似は勘弁してくれよ」
「言われなくてもわかってるよ。大丈夫、彼と喧嘩なんてしないから。心配しないで。むしろ私はパパが心配だよ」
「俺は、ひとりに慣れてるんだ。おまえがいなくてもなんとかやってくさ」
「もう……相変わらずだな、パパはー」
「まったく、こんなじゃじゃ馬娘が嫁に行くなんて夢にも思わなかった! ……じゃあ行くぞ」
「うん」
そうして文哉は娘である理沙とともにヴァージンロードを歩いた。
文哉は兄と義姉と出会った日のこと、短い期間だが彼らと普通の家族のように過ごしてきたことを思い出す。
そうして教会のオルガンのメロディーを聞いているうちに腕を組んでいる理沙が生まれた日から今日までのできごとが脳裏をよぎる。幼稚園で友達と喧嘩をして怪我をして帰ってきたこと、小学校の運動会に一等賞を取ったこと、中学校の合唱コンクールで優勝したこと、高校で初めてできた彼氏と別れて泣きついてきたこと、大学で遊んでばかりいると大喧嘩をしたこと、父の日に初任給でネクタイを贈ってもらったこと、そして婚約者である男を紹介してくれたこと……。
緊張している新郎に微笑みかけ、文哉は理沙へと声を掛けた。
「理沙……幸せになるんだぞ」
「パパ……」
そうして文哉は、まるで純白の天使のような姿をした娘が自分の手を離す。理沙が新郎とともにヴァージンロードを歩く姿を見つめていた。
大事に育ててきた愛娘が婚約者と指輪の交換をし、誓いのキスをして周りの友達や仕事仲間、知人から祝福される姿を文哉は見守る。娘が幸せそうに笑う姿を目にした彼は、自然とこぼれてくる涙を拭い去り、「今日はいい日だ」と晴れ渡った空を仰いだ。