交渉
「おはようございます。昨夜はよく眠れましたか」
顔を上げた長月が、シンクを打つ水を止めて言う。何気ない挨拶の言葉が、私には皮肉のように聞こえてしまう。
答えないでいると、追撃があった。
「あちこち見回って、気は済んだでしょう」
「……全然」
「それは困りましたね。ですが、この狭い部屋で、あなたの行ける範囲の場所で、見られるところはすべて見たんじゃないですか」
「まあ」
「だったら、逃げる術が無いことはわかったはずです」
世間話のようにさらりと言って、ダイニングテーブルの上に朝食のプレートを二つ置く。綺麗な黄色のスクランブルエッグがちらりと見えた。「さあ、顔を洗ってきてください。牛乳とオレンジジュース、どちらがいいですか」
シンク下からコップを出す長月を尻目に、私は返事をせずにLDKを出た。洗面所へ行き、洗面台に両手をついて鏡の中の自分を見つめる。鏡の中の私が、不安そうに見つめ返してくる。
大丈夫、大丈夫。
私は唇だけで呟く。逃げるのに役立ちそうな”モノ”は確かに見つからなかった。けれどその代わり、一つ手段が思いついた。今からそれを実行する。
冷たい水を流し、両手で掬ってバシャバシャと顔を濡らした。頭と目が冴えてきて、少し勇気が湧いてくる。
LDKに戻ると、長月はダイニングテーブルの片方の席に座っていた。昨夜の夕食時に座っていた席だ。私も向かいに腰かける。
向かい合う二席のちょうど中間あたりに牛乳の入ったコップとオレンジジュースの入ったコップが一つずつ置かれていた。
「お好きな方をどうぞ」
促されて私は首を横に振る。長月はわがままな子どもを見るような目をして口元に薄く笑みを作った。
「何も飲まないのは体に良くありません。牛乳もジュースもお嫌いでしたら、他に何がいいです?」
そうじゃない。私はまた否定の意味で首を振る。長月は、困りましたねと大して困っていなさそうな笑みで続ける。
「あなたには健康でいてもらいたいんです」
「なぜならそれが、長月に課せられているルールの一つだから。そうでしょう?」
私は長月の目を正面から見据えて言った。それが意外だったのか、長月の表情に僅かな怯みが覗き、自然な動作で視線が逸らされる。
「ルールの件は、あなたが気にすることじゃ……」
「取り引きしない?」
私は前のめりに言った。長月の目が僅かに見開かれ、視線が私に戻ってくる。
「取り引き?」
「そう。私が一つ長月の言うことを聞いたら、今度は長月が一つ私の質問に答える。簡単でしょ。私は知りたいの。私が誰なのか、あんたが誰なのか、ここがどこなのか」
「……答えられないことが多すぎます」
「それでもいいよ。答えられないことは、『答えられない』って答えでいい」
長月が神妙な面持ちで言った。
「あなた、たった半日で……どこまで気づいたんですか」
「さあ」
「取り引きだなんて。俺は頭のおかしい監禁犯ですよ」
「どうかな」
そうではない可能性の方が高いと思っていた。それは、自分自身を監禁犯だと言ってみせる長月の言動にも裏打ちされている気がする。つまりは、監禁犯でいなければいけない状況に諦観を持っているというか。
「わかりました」
と、しばしの沈黙ののち長月が答える。「それであなたの気が済むならば、取引に応じましょう」
「ありがとう」
私が言うと、長月は一瞬、反応に困ったような表情をした。
「それでは葉月さん、一つ言うことを聞いてもらいます。牛乳かオレンジジュース、どちらかお好きな方を選んで飲んでください」
「わかった。じゃあ飲む前に、私から一つ質問」
「どうぞ」
「牛乳とオレンジジュース、長月はどっちが好き?」
「いえ、俺はどちらでも」
「どっちを飲むかじゃない、どっちが好きか聞いてるの。好きの度合いがまったく同じなんてことないでしょう? 答えなかったら取引違反だからね」
対等な取引相手のつもりで毅然と主張してみる。そうだ、これも私の狙い。監禁する者とされる者という上下関係から、取引の形にすることで、対等な関係へと変えていく。
「牛乳、のほうが」
「はいどうぞ」
私は長月の前に牛乳のコップを置き、オレンジジュースのコップをとってひと息に飲み干した。
「あ、いただきます。飲んだあとだけど」
「どうぞ……召し上がれ」
長月の中で何かが揺れているのがわかる。脱出の糸口はここにある。
スプーンを手に取り、スクランブルエッグを掬って口に入れる。バターの風味をまとったふわとろの玉子。濃すぎず、やさしい塩味。昨夜のオムライスもそうだった。
玉子にこの味つけをする人間が、ただの悪人なわけがない。