探索と推理
静まり返った部屋で冷蔵庫の稼働音がやけに大きく聞こえる。逃げ出すとしたら今がチャンスだと思った。長月は自室で就寝している。足枷を外せれば、長月の部屋の前を通って玄関から逃げられる。外せなくても、窓から外へ出られれば助けを呼べるかもしれない。
眠気は無かった。そもそも、つい先ほどまで自分は眠っていたのだ。
この部屋には時計が無いから時刻がわからないが、仮にオムライスが夕飯だとして、それが十九時ごろだとすると、目覚めたのは十八時ごろで、風呂に入ったのは二十時ごろ、今現在は二十一時ごろだろうか。大人の就寝時間にしてはずいぶん早い。
暗闇に目が慣れてきて、私は掛布団を捲った。左足首を引き寄せ、はめられた金属の足枷に目を凝らす。輪の直径は約八センチ、足首と足枷との隙間は一センチ弱。足からすっぽり引き抜くことは、踵を骨ごと数センチ切り落としでもしない限り不可能だ。輪は半円と半円の組み合わせで作られており、片方の接続部を軸に大きく開くようになっている。そして閉じたところを留めるのに、小さな南京錠がつけられている。その鍵は十中八九、長月が持っているのだろう。
駄目でもともと。私は南京錠を力任せに引っ張った。角度を変えたり、捻りを加えたり、一通り試してみるがびくともしない。足枷から続く鎖も引っ張ってみた。引っ張りながら、右足の裏で何度か強く鎖を蹴ってみたが、壊れるような様子は見られなかった。足枷を外すには、南京錠の鍵かピッキングできそうな器具、もしくは鎖を切れそうな刃物がいる。鍵と刃物は無いだろうから、探すとしたら器具だ。クリップやヘアピンのようなもの。
ベッドから起き上がり、フローリングに素足を下ろす。スリッパはぱたぱたと音が鳴るから履かない。探索の前に、ふと思い立って窓へと寄った。窓ガラスが黒塗りであることに気を取られて、内鍵が開くか試していないことを思い出したのだ。カーテンの隙間から、淡い期待を込めて内鍵に触れる。
「開かない……か」
力を込めるが、一ミリたりとも動かない。駄目もとで窓枠に手をかけて窓自体を引き開けようともしてみたが、軋みすらしない。普通、鍵のかかったドアだって押したり引いたりすれば少しは音が鳴る。それは完全に隙間なく作られているわけでなく、ほんのわずかなゆとりが用意されているからだ。それが無ければドアはドア枠にぴったり密着してしまい、簡単には開けられなくなる。宮大工が釘を使わずに木材同士に凹凸をつけて組み合わせていく木組みと同じだ。ぴったりはまれば、簡単にはほどけない。
ゆとりが無いということは、そもそも開けることを想定して作られてはいないということだ。つまりこの窓は、掃き出し窓の姿をしたはめ殺し窓。その事実に失笑が漏れる。もはや笑うしかない。LDK側の窓も見てみたが、そちらも同様だった。
そうなると、窓から脱出するには窓ガラスを割るしかない。しかし到底現実的な案ではなかった。監禁用に用意された部屋のこの窓が、防弾ガラス並みに高い防御力を持っていても不思議ではないからだ。試してみてもいいが、ガラスにヒビを入れる前に、打撃音で長月が気づくだろう。長月が仮に眠っていたとしても、起きない保証は無い。
するとやはり、足枷を外して玄関から脱出するのが唯一の道だ。足枷を外すための器具を早々に見つけたい。ピッキングの方法など知らないが、他に方法が無いのだから、とにかく試してみるしかない。
私は足音を立てないように慎重に歩き、洋室、リビング、ダイニングを順に探索した。ベッドの下、ベッドマットレスの下、シーツの下、枕カバーの中、ヘッドボードの裏。クローゼットの中には、プラスチックのハンガーが数本かけてあるだけだった。リビング。ソファの下、背もたれと座面との間、ローテーブルの裏、カーペットの裏。ダイニング。テーブルの裏、椅子の裏。
そしてキッチン。収納棚も冷蔵庫もあり、一番小物が多い場所だ。まずはシンク下とコンロ下の収納。包丁には触れないよう気をつけながら、食器や調理器具を見ていく。カトラリー用の引き出しにはスプーンしか入っていない。大中小のスプーンばかりが並ぶ光景は異様だった。
続いて冷蔵庫。化粧水と乳液を使ったときと中身は同じだ。調味料と食材。冷凍室には氷だけ。
足でペダルを踏んで開けるタイプのゴミ箱には、長月が夕飯を作った際の生ごみが入っていた。有用そうなものは見当たらない。
ダイニングから椅子を運んできて、最後に上の収納棚を開ける。
何も入っていなかった。椅子をずらして隣の棚も順に見ていくが、やはり何も無い。上段は使い勝手が悪いということか。いや、長月の身長はおそらく180センチ前後。上段にも容易に手が届く。
椅子をダイニングに戻しながら考える。LDKも洋室も、少しずつ変だ。生活感が欠けている。クローゼットに服は無いし、ソファの正面にはテレビも無く壁があるだけ。カトラリーがスプーンだけなのはさておき、キッチンの上の収納棚は空っぽ。
そうだ。この部屋はまるで、つい最近人が住み始めたような生活感の無さなのだ。引越したてで、まだ生活用品がすべて揃っていないような。
確信を得たくて、トイレと洗面所も覗いた。改めて見てみると、トイレには本当に何も無い。タンクの水の流れるところに置く洗浄剤も、掃除用のシートもブラシも無い。あるのはトイレットペーパーだけ。洗面所にだって、二人分の歯ブラシと歯磨き粉しか無い。鏡横や洗面台下の収納を開けてみても空っぽだ。ハンドソープや石鹸すら無い。浴室には入浴時に見たリンスインシャンプーとボディソープのみ。
この部屋は本当に”長月の”部屋なのだろうか。だとしたら長月は、いつからここに住んでいるのだろう。
その時、玄関側の部屋から物音がして、私は長月が出てくると思い慌てて洋室へ戻った。ベッドに滑り込み、最初に長月がしたように掛け布団を首元まで引き上げて目を閉じる。
やがてトイレの水の流れる音がして、なんだトイレか、と肩の力が抜けた。しかしその油断を突くようにLDKのドアが開く。
「歩き回るならスリッパを履いてください。おとなしく寝てくれるのが一番ですが」
バレている……!
早鐘を打つ心臓を隠して寝たふりをしながら、長月の去っていく音に耳を澄ませる。
うるさくはしなかったはず。ならばこの部屋に隠しカメラでもあるのだろうか。目を開けたら、それすらもどこかで長月が見ている気がして、私は瞼を上げられなかった。そうしているうちにいつしか意識が遠くなり、気がつくとまた最初と同じように、対面式キッチンで長月が洗い物をしていた。