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喫茶南国に風が吹かない日

「いい、自分でやる」

「火傷するといけませんので」

「ドライヤーで火傷なんてするわけないでしょ。いくつだと思ってんの」

「おいくつなんです?」

「それは……」

 答えられなくて口をつぐむ。二十代中盤と思っておこうと結論づけたものの、実際自分が何歳かはわからない。

「ああ、女性相手に失礼な質問ですみません」

 長月はあまり悪びれない様子で薄く微笑む。

「そ、そうだよ、ほんとそう。小学生だって髪くらい自分で乾かすよ」

「そうですね。ですが申し訳ありません、あなたにドライヤーは触らせられないんです」

「どうして?」

「明確に武器となりうるからです。包丁と同じ。俺しか扱えないようになっています」

“しています”、ではなく”なっています”、という言い回しが引っかかる。

「……そう。さっきも言ってたルールってやつね」

「あれは失言でしたが……おっしゃるとおりです。ですから、どうぞ」

 長月はソファを手で指し示す。座れというのだ。不本意だが、濡れ髪のままでいるのは気持ちが悪い。

「変なことしないでよ?」

「不誠実なことはしません」

「誘拐と監禁は誠実なんだ?」

 反射的に嫌味を言いながら、ソファに腰かける。

「そう問われると返す言葉もありませんね……ただ、俺はあなたを誘拐したわけでは―――」

「え?」

 ドライヤーの音が長月の語尾をかき消した。「ちょっと」

「前を向いていてください」

 振り向こうとした頭を戻されて、その力の強さに私は口を閉じた。温風が髪を舞い上げ、硬い指が頭皮をがしがしと這う。痛くはないが丁寧とは言い難い。まるで犬でも洗うかのような手つき。それでも、髪の絡まりに指が引っかかるとすぐに手が止まる。そのまま無理に引っ張らないところに気遣いのようなものを感じる。

 温かさも相まって眠気に襲われそうになり、私は重くなる瞼を持ち上げて思考を続ける。

 俺はあなたを誘拐したわけではありません、と長月は言ったのだと思う。それが本当だとしたら、私は自分の足でこの部屋へ来たのだろうか。それとも長月が何らかの理由で誘拐だけを誰かに依頼したのか。あるいは誘拐犯が諸悪の根源で、長月はそいつから監禁役を任されているだけなのか。

 ルールというワード、長月の言いぶりから察するに、三つ目の考えが近い気がする。私だけでなく、長月自身も何かに縛られているのではないか。

 ドライヤーの音がやむ。

「終わりました」

 長月はコンセントからプラグを抜き、ドライヤーを持って廊下へ出ていってしまう。ドライヤーは長月の部屋にでも隠してあるらしい。

 ソファの前のローテーブルには長月が先ほど読んでいた文庫本が置かれている。このリビングにはテレビが無い。本を読むくらいしか暇つぶしの方法が無いのだろう。ブックカバーがかかったそれを手に取り、表紙を捲ってみる。

『喫茶南国に風が吹かない日』

 何系の物語だろうかと気になり、ブックカバーを半分外して裏表紙を見てみると、あらすじがあった。どうやらミステリーらしい。

陽気なマスターの営む昔ながらの喫茶店、喫茶南国。営業時間を終えた午後十時、その店内で常連客の一人の遺体が見つかった。死因は刃物で刺されたことによる失血。店内は密室で、唯一鍵を持ったマスターはその時間、遠方に住む女子大生の娘とテレビ通話をしていてアリバイがある。いわゆる密室殺人事件。その犯人をマスターの娘が追うというストーリー。

「読んだことある、気がする」

 確信ではない。ストーリー展開はもちろん、犯人もトリックも覚えていない、けれど、物語を読んだときに頭に残る光景の一部に、既視感がある。喫茶南国。その店内を私は、一度想像の中で見た気がするのだ。

 この物語を読みたい。突き動かされるように冒頭のページを開いた。


 二十歳の誕生日を目前にして、横峯亜衣は警察が一人暮らしのアパートに訪ねてくるという稀有な体験をした。二日前の夜、成人のお祝いは何がいいかという話を、地元に住む父、明夫とテレビ通話で話した。そのときのことを、茶色のスーツを着たオジサン刑事にこれでもかというくらい詳細に質問攻めされた。

 例えば、亜衣は明夫に大学で使う新しいノートパソコンが欲しいとねだったのだが、その欲しいパソコンの型番まで聞かれたのだ。そんなもの、答えられない。ただ思っていたのは、もっと軽くて可愛くて、起動するのに毎回十分近くかからないノートパソコンが欲しいというだけだった。

 急に訪ねてきてどうしてそんな質問をするのかと聞いてみると、オジサン刑事―――滝本は渋い顔で、絶対口外しないようにと念押しして教えてくれた。

 二日前の夜十時ごろ、明夫の営む喫茶店、喫茶南国で常連客の女性が刺殺されたらしい。そして明夫は重要参考人として警察で事情聴取を受けているという。

 言葉を失うとはこういう状態をいうのだと亜衣は思った。蝉のうるさい夏真っ盛り。平日の午前九時。スウェット姿で、すっぴんで、玄関に立ったまま、どこにでもいる大学生としての日常が、かかとの先からすうっと後ろへ遠ざかっていく気がした。

それがつい四時間前のこと。滝本が帰ると亜衣はすぐさま身支度を整え、キャリーケースに二日分のお泊りセットを詰め込んでアパートを飛び出した。向かう先は地元、愛媛県松山市三津浜。航空券は行きの分だけなんとか取れた。帰りがいつになるかはわからない。夏休みの間中ほぼ毎日のように入れていたバイトも、親が危篤だと嘘をついて休みをもらった。

 大学の後期が始まる十月頭までには帰ってくるつもりだ。さらば東京。

 飛び立った飛行機の窓からスカイツリーに別れを告げて、亜衣はポップスの流れるイヤホンを両耳に差し込み、目を閉じた。


 突然現れた手が、文庫本を奪っていく。

「もう寝る時間です。洗面所で歯磨きをしてください」

 抑揚無く告げる長月を私は見上げる。「その本」

「俺も読みかけなんです。読み物が欲しければ、別の本を用意します」

「……いらない」

「そうですか。では洗面所へ」

 有無を言わさぬ雰囲気があって、私はおとなしく言われたとおり歯を磨いた。そうして戻ってくると、長月はまたソファで先ほどの文庫本を読んでいた。遠目に見た感じ、ちょうど半ばごろまで進んでいるらしい。

「ミステリーが好きなの?」

 問えば、長月は本を閉じて振り向いた。「いえ。人が死ぬ物語は好きじゃありません。立っていないで、どうぞ」

 LDKと繋がった洋室のベッドを長月は目で指す。ここで逆らっても仕方がないのでベッドへ入ると、長月はまるで子どもにするように、掛け布団を私の首元まで引き上げた。

「九月とはいえ、ここは少し冷えます。風邪を引かないよう温かくして寝てくださいね」

 そして洋室とLDKの電気を消していく。

「おやすみなさい」

 私は返事をしなかったが、そのことを特に気にも留めずに長月はLDKを出ていく。

 監禁生活一日目が終わる。眠れるはずなど到底無かった。

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