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気の休まらないバスタイム

 知らない。何も、知らない。

 ―――本当に?


 洗面台の鏡に映る自分の裸体には、まるで他人のものであるかのような物珍しさがあった。細い首から続く肩のなだらかな曲線、白く柔らかそうな二の腕、肘の内側に見えるウエストのくびれ、その少し下に縦長のへそ。

そして、なんといっても一番目を引くのは、手のひらに程よく収まるサイズの乳房と―――その左胸に赤黒く残る五センチ程の傷跡。

「これ……」

 鏡を覗き込みながら、その場所に手を触れる。切り傷だろうか、刺し傷だろうか。跡に沿って、指先にぷっくりと隆起を感じる。つまりは皮膚の表面上の傷ではなく、深くまで達し、回復した傷だということだ。おそらく縫合もされたのだろう。しかし今、痛みや違和感はまったく無い。

 寒気が走る。左胸。心臓の上。もしも刺し傷だったとしたら、心臓にまで刺さったのだろうか。けれど私は無事に生きている。

 いや、無事じゃない。自分に関する記憶が無い。それはこの傷のせいなのだろうか。

 コン、コン、コン。

 脱衣所のドアがノックされる。

「葉月さん、大丈夫ですか」

 長月が戻ってきたのだ。私は彼が入ってくるのではと思い、脱ぎ捨てたスウェットを慌てて拾って体の前を隠した。そして、すかさず牽制する。「何? 開けたら許さないから」

「いえ、シャワーの音がしないので、脱衣所で倒れていやしないかと」

「ご心配どうも。いいからどっか行って」

「お湯が冷めるので、早く入ってくださいね」

「わかったから!」

 長月の足音が再びLDKの方へ遠ざかっていく。私は浴室へ入り、シャワーのハンドルを捻った。また長月が来ては面倒だ。そして浴室内を見渡す。

浴室ラックには、安ホテルの大浴場にあるようなリンスインシャンプーとボディソープのボトルが並んでいる。プリンを手作りする一面とは真反対の無頓着さに思えたが、長月の坊主頭や筋肉質で武骨な体を思い返すと、むしろ合っているような気がした。

湯船は冷めないためか九割がた蓋で覆われており、八分目までたっぷり湯が溜まっている。天井には換気扇。隠しカメラでもつけられていないか気になり、よく覗き込んでみたが、それらしきものは見当たらなかった。当然、蓋が外れたところで、その内側のダクトは脱出口にもならない大きさだろう。

 遅くて心配だと覗かれては堪らないので、私は手早く髪と体を洗った。顔は洗顔フォームが無かったので、お湯洗いした。女を監禁するなら洗顔フォームくらい用意しろと言ってみてもいいかもしれない。

 湯船に浸かり、ふうっと息を吐く。左胸の傷にもう一度触れてみる。この傷はどうやってついたのだろう。事故なのか。誰かにやられたのか。誰に?

 今の自分は長月しか知らない。長月以外の誰かを知らない。考えても誰も思い浮かばない。

 ならば長月がやったのか……そうとも思いきれない自分がいる。なぜなら、長月がもし私を殺したいのなら、そうできる瞬間は今日だけでも山ほどあったからだ。

 長月は何故私を監禁するのか。彼は”守るため”と言った。それを信じるとしたら、長月は私を殺そうとした犯人から私を保護してくれているとも考えられる。

「そんなわけない」

 なんだか自分が勝手にほだされかけている気がして、私はかぶりを振った。長月が良い人間なはずがない。彼はつい先ほど、私の鼻と口を塞いで窒息させかけたのだ。善人ならば絶対にそんな真似はしない。

 湯船から上がり、体を拭いて新しい下着とTシャツとスウェットを順に着ていく。すべて薄桃色だ。下着などはどうやって揃えたか知らないが、店頭で購入したのだとしたら、さぞ店員に気味悪がられたことだろう。ランドリーラックの上のかごの中には、同じ服一式がもう三セット入っていた。もともと着ていた分と合わせて五日分になる。少なくともあと四日は、私を逃がす気が無いということだ。用意周到。

 その割には脱衣所にドライヤーが無いのを不満に思ったが、坊主頭の長月はドライヤーなど不要だろうから、仕方がない。濡れ髪でスウェットが濡れないよう、肩にタオルをかけて私はLDKへ戻った。

 LDKのドアを開けると、リビングのソファで長月が本を読んでいた。長月は私を振り返ると、

「ああ、ドライヤーが必要でしたね」

 とすぐに気づいた。そして、「用意します。冷蔵庫のドアポケットに化粧品類があるので、よければどうぞ」と言い残してLDKを出ていった。

 洗顔フォームは無いのに化粧品はあるという不整合。それに違和感を覚えつつ、私は言われたとおり冷蔵庫を開けてみた。中には食料品と調味料が適量格納されており、ドアポケットには化粧水と乳液らしき瓶があった。いずれも未開封で、ラベルがシンプルなためどこのメーカーのものかはわからない。

 二つの瓶を出し、順に顔につけていく。乾燥を防ぐという目的で、何も無いよりはいい。過去の自分がどうだったかは知らないが、思春期を過ぎた女性は風呂上りに顔を潤すものだと常識として知っている。

 十分ほど経ち、ドライヤーを手にした長月が帰ってきた。どこにしまっていたのか、家の中でただ持ってくるだけにしてはずいぶん遅い。

手渡してくれるものと思い、待っていると、長月はリビングのコンセントにプラグを差し込みソファの後ろに立った。

「座ってください。俺が乾かします」

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