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半径約十メートル

 トン、トン、トン、トン、トン。

 包丁がまな板を打つ音。どこか懐かしい感じがするのに、何故そう感じるのか、明確に言葉にすることができない。当然か。自分の名前も覚えていないのだから。

 けれど、この部屋が自分にとって安心できる場所ではないことは本能的にわかる。一刻も早く出ていかねばならない。

 場合によっては、あの男―――長月を傷つけてでも。

「よしっ」

 私はベッドの上で体を起こした。長月がふとこちらを見たが、害はないと思ったのか、何も言わずに調理に戻った。

 好都合だ。そうやってせいぜい油断していればいい。

 フローリングに両足を下すと、じゃらじゃらうるさい鎖の音がひときわ大きく鳴った。私は気にせず部屋の探索を始める。

 まずはこの、LDKと繋がった洋室だ。五畳ほどの広さで、中央には私の寝ていたベッドがあり、壁際にはクローゼットがある。

「窓」

 あとはそう、ベランダに繋がるとみえる掃き出し窓だ。今は厚い遮光カーテンに覆われていて、外が昼なのか夜なのかもわからない。この窓から少しでも外の景色が見えれば、脱出の糸口が掴めるかもしれない。

私は迷わずカーテンを引き開けた。そして絶句する。

「真っ黒……」

 真っ暗、ではなく、真っ黒。窓ガラスは黒く塗りつぶされていた。あるいは、外側から黒いシートでも貼られているのかもしれない。

 私は窓ガラスに手を触れた。

「冷たい……」

 太陽の熱を微塵も感じない。それはこの窓が太陽の当たらない北向きにあるということなのだろうか。それとも、今が夜だということなのか。

「そうだ、リビング」

 そちらにも当然、窓はある。私はリビングへ行き、洋室の二倍の幅がある掃き出し窓を見た。こちらも洋室同様、遮光カーテンがかかっている。私は重く長い左右のカーテンを一枚ずつ、目一杯引き開けた。

 しかし見えたのはやはり人工的な黒一色。そして窓ガラスに反射して呆然と佇む自分と、その背後に立つ無表情の長月。

「ひっ」

 と情けない声を上げて振り返る。エプロン姿の長月が、しゃがんで床に何かを置いた。

「……スリッパ?」

 長月は立ち上がり、私を見下ろして言う。

「足が冷えるので、歩き回るならこれを履いてください」

 どう返事をしたらよいか、わからなかった。坊主頭の屈強な男がその体躯に似合わぬエプロンをして、無表情でスリッパを履けと言ってくる。その背後のキッチンでは、この男の手作りのケチャップライスがじゅうじゅうと音を立てている。なんという非日常……!

「い、いらない」

 言われたとおりに履くのがしゃくで、とにかく拒否した。

「履いてください」

「あんただって裸足でしょ」

「俺はいいんです、寒かろうが風邪を引こうが。でもあなたは駄目だ」

「なにそれ」

 私が動かずにいると、長月はフローリングに膝をつき、足枷のついていない私の右足首を掴んだ。

「わっ、ちょっ、ちょっと! 触らないでよ」

「あなたが言うことを聞かないから」

 右足を引っ張り上げられて、よろけてしまい、思わずそばにあったスタンドライトを掴んだ。長月はまるで人形に靴を履かせるかのように、持ち上がった私の爪先にスリッパを引っかける。「わかった、履くから、離して!」

 長月の手がパッと離れる。私は両足にスリッパをまとわせて、すぐさま長月から距離をとった。長月は納得したのか、背を向けてキッチンへ戻っていく。

 不本意ながら履くことになった薄桃色のスリッパは、思いのほか足によく馴染んだ。そういえば気にする余裕が無かったが、衣服も薄桃色だ。

 薄桃色のスウェット上下。サイズはぴったり。長月が選んだのだろうか。

 薄桃色のスリッパとズボンとの間から伸びる、鉄色の鎖。その武骨さが余計に目立つ。

 そうだ、この鎖。

 先ほど、この鎖が玄関までは届かないことを知った。ならばどこまでなら行けるのだろう。

 私はLDKの床に空いたピンポン玉大の穴を覗き込んだ。鎖はそこから出ている。ゴムが伸びたり縮んだりするように、私が近づくのと遠ざかるのに合わせて鎖の出る長さが変わる。だから、どこまで伸びるかは実際に遠くへ行ってみなければわからなかった。

 もう一度、廊下へ出てみよう。

 私は長月の様子を伺いながら対面式キッチンの横を通過した。長月は何も言ってこない。彼はちょうど、ケチャップライスを白い皿に楕円形に盛りつけるところだった。

 廊下に続くドアを開ける。正面奥には玄関ドアが見える。そして、先ほどは見る余裕が無かったが、左右の壁にはドアが二つずつついていた。

 まずは左の手前。開けてみると、トイレだった。窓が無い代わりに、天井に換気扇がついている。

 続いて右の手前。そこは洗面所と風呂場だった。白い洗面台には、使いかけの歯ブラシが1本と、封を切っていない新品の歯ブラシが置かれている。歯磨き粉も同じものが1つずつある。自分と、長月のものなのだろうと思った。そして、こちらも窓は無く、風呂場の天井に換気扇がついているだけだった。

 私は洗面所を出て、廊下をさらに奥へと進む。すると、先ほど鎖が止まった場所――廊下に四つあるドアのうち、玄関に近い二つには手が届かない位置で、やはり鎖は伸びなくなった。

「半径約十メートル」

 これが私の行動範囲。この範囲にある何かを使って、この部屋から脱出しなければならないということ。

成し遂げてみせる。なんとしても。

 パチン、と音がして、暗かった廊下に明かりがついた。LDKの方を振り返ると、エプロン姿の長月が立っていて、廊下の電灯のスイッチに手を置いていた。

「暗い所にいると、目が悪くなりますよ」

「……うるさいな。あんたは私のママ?」

 もはや飲み込めなくなった悪態を素直に吐き出す。

「オムライスができました」

 自分に母がいるのかどうかも覚えていない。けれど、ママという言葉は知っている。悪態を悪態だと認識し、口汚い言葉に若干の罪悪感すら覚えることができる。

 物の名前、人間の常識、基本的な生活の知恵。すべてを忘れたわけじゃない。忘れていないことは確かにある。

 それがあれば逃げ出せる。

「冷めないうちに食べましょう」

 せめてもの抵抗として、返事はせずにLDKへと戻る。キッチンのシンクに置かれた包丁が、ちらりと私の目に入った。

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